「できるようになる」について

何度も書いてきたけど。
 
以前に書いた「頭が良いとはどういうことか」で言えば、
人が何かを学び始めるときの「創出」期。
そのとき、「飛躍」がある。ということについて。
 
「逆上がり」「水泳」「英会話」「数学」の順に考察する。
もちろん、メインの目的は、「数学」だけど。
これらのことが「できる人」と「できない人」の違いは何だろうか。
そして、「できない人」が「できる人」になる時の仕組みはどうなって
いるのだろうか、という話。
 
これらのことについて、「できない人」が「できる人」になる瞬間、
確かに、その前後で、その人は、大きく変わったと言えるだろう。
しかし、実際のところ、そんなに大きく変わってもいないと思う。
筋肉が大きく発達したり、神経細胞が変わったり、知識が急激に
増えているわけでないだろう、ということだ。
 
たとえば、「逆上がり」で言うと、できるかどうかは、たぶん、コツを
つかんだかどうかだろう。
コツをつかめない人は、一生「逆上がりのできない人」でいるわけだから、
大きな違いではあるのだが...。
逆上がりくらいどうでもいいと言えば、そうだろうが、私には、
同じような構造が、ほとんどすべてのことにあるように思えるのだ。
 
何かができない生徒に、指導者・教育者は、「一歩一歩戦略」を
取ることが多いような気がする。
また、それは、しばしば、生徒側の要求でもある。
「ゆっくりやらせよう」「少しずつ教えてください」というものだ。
 
しかし、(何度も書いているが)、そのような戦略は、実際のところ、
あまり本質的ではないと思う。
たとえば、逆上がりの場合、「逆上がりのコツ」の前に、単純に
腕や足やおなかの筋力が不足していることもあるだろう。
その場合、少しずつ筋肉を強化していくのはよい戦略だと思う。
また、その「結果」(実は異議がある)、ある日突然、逆上がりが
できるようになるかもしれない。
このような指導を否定するつもりは、もちろん、ない。
そのような先生には、感謝の気持ちでいっぱいである。
 
しかし、冷静に考えれば、「筋力は十分あるけれど、逆上がりはできない」
という状態が、「逆上がりができる直前」にはあるはずだし、
その状態から、「逆上がりができる状態」になるには、「一歩一歩」
ではない、「飛躍」があるだろうと思うのだ。
逆に、その「飛躍」をつかめない人は、十分な筋力があっても逆上がりは
できないのである。
そのような話を考えたい。
 
続く。
コメントを1つ。
「また、その「結果」(実は異議がある)」で、「異議がある」と書いたのは、
筋力の強化は、逆上がりに役立っただろうとは思うけれど、逆上がりが
できるようになったのは、筋力の強化の直接的結果ではないだろうと
言うことだ。逆上がりができるようになったのは、「筋力の強化をして
いるうちにナントナクできるようになった」というのが大抵の場合だと思う。
私が言いたいのは、この「ナントナク」のところこそが重要だろうということだ。