勉強はどのようにするべきか・させるべきか6

ここまで、「勉強はどのようにさせるべきか」の話をしてきた。
「創出」期、つまり、新しいことを教えるときには、「指導者」は、
 
 ・「正しいこと」を、繰り返し語りかけるべき
 ・その際、あまり、理解にこだわらなくてよい
 ・ただし、正しさにはこだわらなくてはならない
 
が、私の結論だ。
教えることが仕事である「先生」の場合、「あまり、理解に
こだわらなくてよい」と言ってしまってよいかどうかは、わからない。
(そういう「大らかな気持ち」は重要だと思う。
 一方、やっぱり、チェックも必要だろう。)
しかし、「親」の場合、「理解」とか「到達度」とかは、思う存分、
無視してよいように思う。
 
さて、これは、教える場合。
では、自分で勉強する場合はどうだろうか。
やはり、繰り返し語りかけてくれる先生がほしいものだ。
が、大抵の大人には、そんなに優しい先生はいないだろう。
社会人である私にはいない。
 
その場合、「先生」は、「書籍」ということになる。
書籍の場合、「何度も読むこと」が、「先生の語りかけ」に相当すると思う。
昔の人は、「読書百遍意自ずから通ず」と言ったそうだ。
私は、この言葉に、小学生のとき、出会った。
そして、即座に、あまり信じられないと思った。
それから、かなりずっとそう思ってきた。
しかし、歳を取って、今は、この言葉は、ある種の真実を表していると思う。
ブルバキ第1巻は、3回くらい読み直したら、わかってきた。
あと数回読めば、わかることはわかるような気がするのだ。
 
次は、「創出」から「伸展」にうつる話。
ポイントは、ドリルだと思う。