私家版・子供のための国語勉強法6

(現代のことはよくわからないけれど、それなりに推測したりして。)
 
私が「国語不得意 → 国語得意」になる過程で、気がつかされたのは、
国語は英文解釈のような、いわば「日本語文解釈」ではない、という点だった。
英文解釈なら、極めて表面的に、そこに何が書いてあるか、それをどれだけ
理解できるか、だけが勝負だ。(でしょ?)
そのために必要なのは(英語の)語彙と文法に関する知識だけだろう。
ところが、国語の場合、もちろん、「そこに何が書いてあるか」を理解する
ことが勝負ではあるが、そのために必要なものは、日本語力だけではない。
その文章の背景にあるものについての「予備知識」がなければ、おそらく、
理解できない。つまり、門前払いなのだ。
 
・・・えーと、これは、30年前の大学入試の現代文の話。
現在のことは知りません。
また、高校入試程度だとどうなるかもわかりません。
とりあえず、「30年前の大学入試の現代文」ということで話をさせてください。
 
さて、現代文で必要とされる予備知識とは、前回書いた「問題意識」あるいは、
それから派生して生まれる知識だ。
それは、歴史の年号や英単語のように、細かいものではない。
しかし、あまり明確ではなく、その範囲もはっきりしない。
つまり、「これこれのことをこのくらい知ってれば大丈夫」ということがない。
また、「常に、自分が能動的に考える」ということなしには獲得できない。
 
たとえば、「家」とか「差別」というお題で、自分自身が一度も考えたことの
ない人は、たぶん、国語の成績は悪かっただろうと思う。
これらは、少なくとも当時の人気の話題だったからだ。
このような話題に関して、
 1.一般にどう考えられているか。
  (「一般人」の考えと、「知識人」の考えの両方を知っている必要がある。)
 2.自分自身、家族、親戚、友人、知り合い、テレビの中で、「家」
  (とか「差別」とか)に関する問題やでき事はないか。
 3.自分はどう考えるか。それは、なぜか。
などと、普段から考えていなければいけないわけだ。
 
こう書くと、逆に、安っぽいというか、国語の点数を上げるために、「家」だの
「差別」だの考えてたの?それって、おかしくね?・・・という話でもある。
まあ、実際、その程度の安い話なのかもしれない。
私自身、「受験のために国語の点数を上げる」と考えていたことは事実だ。
そのことをごまかす気はない。
しかしまた、これらのことを、よくよく考えていて、思索は、いつしか、
受験を越えて行ったようにも思う。
 
結局、これらのこと(思索も、また、受験も)は、その人の人格形成に大きく
関与することであり、決して、悪いことではないと思う。
(意地悪な批判家なら、「じゃあ、人格を点数化するのか」と言いそうだ。
 悪ぶって「受験ってそういうものでしょ」なんて言うこともできるが、
 本当は、そうではないと思う。ただし、ここはもう踏み込まない。)
 
話を戻すと、要するに、国語の点数を上げる話ではある。
 
続く。