私にとって数学的成長とは何か

可能なら、いつの日か、「おっさんにとっての成長」を書きたい。
と、昨日書いたが、今思うことを書いておきたい。
 
私は、子供の頃から数学が好きだったが、数学者になろうと思ったことはない。
(私は、理科の方が好き。実証科学の人なのだ。)
仕事で必要になって数学を勉強することもあった。
その場合、もちろん、勉強した数学は役に立った。
しかし、学生時代(大学以上)になんとなく読んだ数学書は、役に立っていない。
数学を役に立たせたい、というのが、私の野望でもある。
 
学生時代になんとなく読んだ数学書はどのように読んだかというと、、、。
すべての記述を注意深く読み、もちろん定理の証明もちゃんと追っていた(あ、
可能な限りね、笑)と思う。
が、有名な定理の結果以外の細かいことは、一切覚えようとしなかった。
私には、昔から、「覚えること = レベルの低い作業」という信仰があったようだ。
その結果、何も残らなかった。
せめて有名な定理くらいは覚えていて良さそうだが、細かいことを忘れる
(それは、つまり、「細かいことがわからなくなる」ということだ)と、
結局、何もかも忘れる(わからなくなる)のだ。
天才のことは知らない。(天才でなくても)数学科の人たちのことも知らない。
少なくとも、私はそうだったのだ。
 
仕事関係の本は、あまり覚えようとしなくても、だいたい覚えている。と思う。
もちろん、細かい公式やデータはすぐ忘れてしまい、何度も何度も同じ本の同じ
ページを見直すことはあるのだが、その本全体に書いてあることは頭の中に入って
いるし、「必要なときには○章あたりを見ればいいや」という感覚がある。
これは、覚えようとした結果ではなく、覚えてしまうのだ。
しかし、数学書に関しては、そうならない。
 
その理由は、「数学の方が仕事より複雑だから」ということかもしれない。
また、「仕事への興味と数学への興味の興味の強さの違い」もあると思う。
(たとえば、格闘技が好きな人は、歴史の年号など覚えられないのに、格闘選手
 のデータを一発で覚えてしまうことがある。)
ま、この辺は、追求してもしかたがないかな、と思う。
 
しかし、複雑さや興味とは違う、重要なことが1つあると思う。
それは、おそらく、私の中には、「仕事の(私なりの)全体像」があるということだ。
逆に、私の中には、「数学の(私なりの)全体像」がない。
だから、どんなことも、定着しないのだろう、と思うのだ。
つまり、大きなことを言えば、私がするべきことは、私の中に、私なりの数学の
全体像を構築することではないかと思うのだ。
 
全体像、、、そんなものが、ほいほいできれば苦労はない。
しかし、この1年数学の本を読んでいて、ちょっとだけ見えてきた気がしないでもない。
(「解析入門」と「代数入門」だけで、実に、おこがましい奴ですなぁ。ははは。)
「全体像を構築する」ということは、やはり、重要な定理とそれらの関係を理解し、
頭の中に入れるということだと思う。
(「覚える」という単語を使うことに、どうも抵抗があるのだが...。)
これは感覚の問題だが、この点において、「解析入門」は、大変、インスパイアする
ものがあった。
 
そして、もう1つ、重要と思うことがある。
それは、「有名な定理の結果」ではなく、「コマゴマしたコト」だ。
たとえば、代数の本を読んでいると、「f : M → N」とMの部分集合A、
Nの部分集合Bに対して、f^(-1)f(A)はAを含み、ff^(-1)(B)はBに含まれる、
なんてことが頻繁に出てくる。
(キモは、必ずしも、f^(-1)f(A) = A、ff^(-1)(B) = Bではない、ということ。)
頭の良い人は、こんなことは一瞬でわかるのだろう。
あるいは、無意識に処理できちゃうとか?(だったら、うらやましいですな。)
しかし、私はそうはいかない。
ちょっと考えればわかるのだが、ちょっと考えないとわからない。
この「ちょっと」が積み重なると、処理不能になるのだ。
だから、これらの「コマゴマしたコト」に習熟し、それらを楽々使いこなせるように
ならなければならないと思うのだ。
(もちろん、「仕事」関係では、そのような「コマゴマしたコト」を数限りなく
 理解し、覚え、使っているのだと思う。)
 
これは、「全体像の構築」の対極にあるようだが、つながっていると思う。
それは、上でもちょっとだけ書いたが、「細かいこと」が「大きなこと」に
つながっていると思えるからだ。
  
以上です。