飛び級、あるいは、教科書の充実

およそ学校を批判しない、先生の悪口なんか聞くのも嫌という娘が、
「算数の時間は退屈でつらい」と言った。
(息子は、もうずっと前からだが。)
先生の説明はとっくにわかっていることの繰り返しで、「わかっている人は
ドリルを進めるように」と言われるのだが、「やっていい範囲」というのが
決まっていて、それは全部終わっているので、本当にやることがないらしい。
これは、娘だけではなく、クラスに何人かは、同じ境遇の子がいるという。
こういう話をすると、「わかっている子よりわからない子の方がかわいそう」
という話も出るが、何もすることなく机にしばりつけられている子供たちの
ことも考えてほしいと思う。
これは、体育の授業で、「足の速い子は、授業中、その場から一歩も動いては
いけません」と言うのに等しい行為だ。
私は、足の速い子こそ、自由に走らせてあげるべきだと思う。
たぶん、多くの人がそう思うだろうし、実際の体育で、そういうことは起こらない。
ところが、「勉強科目」では起こるのだ。
(これは、もちろん、先生批判ではない。システム批判だ。)
 
私は社○主義者であり、基本的に「みんな一緒」という考え方は好きである。
私の子供時代にあった、「文○省+日○組」製の「みんな一緒教育」は、
悪くなかったように思う。
私も数学の時間はおそろしく退屈だったが、その退屈をがまんするのに見合う
ものもあったように思う。クラスの連帯感のようなものだ。幻かもしれないが。
(それに私たちの時代は、「戦後最強のカリキュラム」で、今よりは、
 退屈しなかったのかもしれない。)
が、いろいろな意味で、「古き良き時代」は去ってしまった。
この多様化の時代、「飛び級」こそ考えてほしいと、心底思う。
 
こんな話をすると、「ヲタクのお子さんたちは相当優秀なんですね」と言われ
そうだが、必ずしもそうではない。ウチの子供たちの場合、この「退屈」は、主に、
算数・数学で発生していて、他の教科は、ちょうどよい進度のようだ。
(あまり言いたくないが、息子の漢字の書けないこと、書けないこと・・・。
 ま、私もそうなんで、しかたがないのだが。)
しかし、たぶん、そういう他の教科では、別の子供たちが、もっと速く進めて
ほしいと思っているだろうと思う。
だから、「科目ごとの飛び級」というものがあればよいと思う。
そして、もし、それが不可能なら、教科書をもっと分厚くして、「速く進める子」が
深く学べる仕組みを作ってほしい。
 
その方が、「学校間のゆがんだ競争」(「学校間のゆがんでいない競争」なら
支持する)を奨励するよりよいのではないか。
仮に今から文○科○省が「飛び級」に動いたとしても、私の子供たちには
間に合わない。しかし、将来の子供たちのために考えてほしい。