才能の芽

小さな子供にはさまざまな才能の芽が見える。
しかし、複数の才能を開花させている大人は少ない。と思う。
ある事のプロで、趣味でやってる別の事もプロはだしという人もいる
ようだが、プロはだしはプロはだしであって、プロではない。
 
何でこんなことを言うかというと、小さな子供の頃にあった数々の
才能の芽は、大きくなるにつれ、選ばれ、あるものは育てられるが、
あるものは忘れられていくのではないだろうか。ということなのだ。
選択・淘汰をするのは、本人だ。
 
もし、そうなら、実にもったいないことではないだろうか。
しかし、理屈で言えば、そうなっていても不思議はない。
でも、もし、そうなら、やっぱり、実にもったいないことだ。
親が何かすることはないのだろうか。
 
考えてみれば、才能の芽を育てるのは、本人だ。
親は、かなり遠まわしな手助けしかできない。
いずれにしても、人は自分で自分の道を選んで歩むのだから、
そのことについて、親がキャンキャン言うことはないのだろう。
 
しかし、せめて、本人が、後で「あー、もったいないことをした」と
思わないような、サポートをしてあげたい。