国語の先取り学習・先行体験4

感想文の話が長かったが、国語の話再開。
 
国語は、「社会と個人をつなぐもの」、つまり、国語科の一端には社会があり、
反対の端には個人があるのだと思う。というところまで話した。
個性は大事だ。
一方、社会全体(その多数派)の考え方を知ることも重要だ。
(従うかどうかは、また別の話。)
 
で、「病気の友人を見舞った少年の話」というのがあったとして、それを読んで、
どう感じるか、という話を例にしていた。
 
たとえば、普通の小学校の授業(参観日用授業?)だと、先生は、まず、
班別に話し合わせ、意見をまとめさせ、班の代表がそれを発表し、
またみなで議論するという感じになると思う。
私は、「学習」という意味では、この方式がベストではないかと思う。
誰かが、突拍子もないことを言っても、おそらくは、強く否定されることはなく、
それでいて、自分はマジョリティ(多数派)でないことに気づかされること
になるだろう。
個人が、マジョリティの考え方・感じ方に従う必要はないと思う。
しかし、マジョリティの考え方・感じ方を知る必要はあるのだ。
 
おそらく、私たちと似た価値観を持つ先生方がリードすれば、そこに問題は
ないように思う。「思いやりを持つことは大切」という方向に話をまとめてくれる
のではないだろうか。
 
ところで、学習者(子供)が、「(重い)病気の友人」を見たことが無い場合は、
どうなのだろう。見たことがない状態の人の話を読ませて、「思いやりを持て」
というのだろうか。それは、なんだか、不思議な話でもある。
いやいや、見たことがなくても、ある程度の年齢になれば、わかるだろう、
という人もいる。確かにそう思う。
大江健三郎氏の「想像力」の話を思い出す。)
それでも、たぶん、わからない子供がいる(大人もね)。
 
私は、こんな場合にこそ、「話し合う」ということが有効なのだと思う。
多くの子供が話し合えば、たぶん、似たような経験をした子供がいるだろう。
その子が感じたことを、みなで共有できれば、それが、「良い国語の授業」に
なるのではないだろうか。
 
で、↑いろいろ問題をかかえたまま、続く。
 
付記:
確か、石原千秋氏が、「秘伝 中学入試国語読解法」で、「学校の国語は道徳に近い」
というような話をされていたかと思う。 私も賛成だが、「道徳」=「マジョリティの
考え方・感じ方」ではないかと思う。
比較的中立な「国語の授業」でそれを教えるのは、むしろ、適当ではないだろうか。
「道徳の時間」なんかで押し付けるのは、勘弁してほしい。