国語の先取り学習・先行体験5

「国語の勉強」の難しさのひとつは、
 
 個人と社会の「違い」をどう扱うか
 
だと思う。これに関しては、前回書いたように、
「クラス(学級)の中で話し合い、最終的に、先生の指導を受ける」
がベストだと思う。
結局、個人と社会の「違い」は、本人が認識し、本人がその違いをどうするか
決断しなければならない。
(社会に合わせるのか、独自の道を行くのか。)
そして、「クラス」こそ「子供にとっての社会(模擬的な社会)」であり、また、
先生は、「大人の社会(本当の社会)の代表」と考えることができる。
そこでもまれて、成長するのが、自然であり、ベストだと思うのだ。
学校バンザイ!
 
もちろん、問題はある。
たとえば、これだけ、価値観が多様化した時代において、本当に、クラスが
「模擬的な社会」だろうか。先生が本当に、「大人の社会」を代表していると
言えるだろうか。
(代わりに、親が「社会の代表役」をやるということもあるだろうが、
 私には、その自信はない。)
考えてみると、なかなかやっかいなことである。
が、どんな風に考えてみても、これをこえるシステムは、思いつかない。
したがって、もし、自分で考えることがあるなら、このシステムを
親としてどうサポートするか、あるいは、どう利用するか、だけであろう。
 
さて、親として考えると、別の問題が表れる。
それは、上記に従えば、「国語の勉強」は、ほぼ自習できないということだ。
違うだろうか?
そうだとすると、親の仕事は、ずいぶん限られてくる。
 
付記:
ちなみに、考え方・感じ方の根本にある「価値観」を子供に与えるのは、
親の仕事だと思う。
ただ、「仕事」というか、おそらく、子供は自然に親の価値観を受け継いで
しまうのではないだろうか。
(ここで言う価値観とは、「親が口で言ってるきれいごと」もあれば
 「心の中にあって、態度でわかってしまう本当の価値観」もある。
 どちらを選ぶかは、その子供次第だと思う。
 実際にはかなり「汚い事」をしている人が、子供の前では、きれい事
 ばかり言っていた。すると、その子供は、やっぱり「汚い事」をする人に
 なってしまった...なんてこともあるだろうし、その子供はきれいな
 心の持ち主になってしまった...なんてこともあると思う。)
だから、本当の「仕事」は、「自分の価値観と普段の行いを出来る限り精査し、
なるべく自分の意図する価値観を正しく伝えること」だろうと思う。
ただ、それがちゃんとできれば、それは、もちろん「重要で難しい仕事」だが、
そもそも、ちゃんとできる気がしないので、事実上、「自然に任す」と
いうことになるのではないだろうか。
 
したがって、自分の価値観と学校の先生の価値観が大幅に違った場合、
おそろしいのだが、まあ、それはなるようにしかならないと思う。