あなうめ感想文を擁護する2

2.「子供の感想文にはお手本がない」
私は、「子供の感想文に、お手本はない」と思う。
正確に言うと、「公式なお手本はない」。
さらに、「感想文の書き方」の指導もほとんどないのではと思う。
少なくとも、私は受けた覚えがない。
あるのは、「書きなさい」という指示だけだ。
そして、たまにある補足説明は、「思ったことを自由に書きなさい」。
 
「思ったことを自由に書きなさい」という指示を出す先生の大部分は、
本気で「ヘタでもよい」と思っているのだろう。
しかしまた、「子供が素直に思ったことを書けば名文になる」などと
いう信仰を持っている人もいそうだ。
先生というより、賞の審査員や親などに。
しかし、私は、「文章を書く」ということは、「絵を描く」や
「計算をする」などと同様に、技術であり、お手本も無く、技法の
訓練もなしに、よい文章を書くことはできないと思う。
仮に、そんなことができる子供がいるとすれば、それは、天才である。
それなら、感想文のコンテストは、「天才の発掘」であって、通常の
教育とは違うものだろうと思う。
 
「別に、よい文章でなくてもよい」という人もいるかもしれない。
もちろん、それなら、それでいいと思う。
しかし、そういう人が、時に、「子供らしさ」などというよく
わからない評価基準を持ち出すこともある。
もちろん、「大人の心を打つ、子供らしい文章」はある。
そういう文章を書く子供を表彰するのもよいことだろう。
しかし、私は、自分の子供が、子供らしい文章を書かなくても別に
かまわないと思う。
(普段の生活を見ていれば、十分、「子供らしい」とわかるから。)
ましてや、「子供らしい文章を書く」ための訓練なんかしてほしくない。 
(「訓練なしに書ける」という信仰を私は持っていない。)
 
もちろん、子供が書いた「子供の感想文のお手本」はある。
過去の受賞作品などだ。確かに、よい作品のようだ。
しかし、それは、しょせん、子供が書いた「参考例」にすぎず、
「公式のお手本」ではない。
何よりも、本来、大人が、「感想文とはこのように書くのだ」と、
本気で書いたお手本がないのは、おかしいではないか。
 
つまり、子供の感想文に、「公式のお手本」はないのだ。
その分、書店には、「非公式のお手本」が並ぶことになる。
しかし、非公式はあくまで非公式だ。
つまり、それは、「著者がよいと思う書き方」であって、それが、
「本当によい書き方」なのか、誰にもわからない。
さらに言うと、それらの「お手本」は、大人が、「感想文とは
このように書くのだ」と、本気で書いたお手本ではない。と思う。
大部分は、「子供はこう書くのがよい」という「お手本」、つまり、
「子供用としてしか使えないお手本」でしかないのだ。
(この違いはわかっていただけるだろうか?)
 
「課題としての感想文」にだけ厳しいだろうか。
夏休みの課題で、感想文と双璧をなすのは、習字だろう。
習字にはお手本がある。
大人が書いた立派なお手本が。
もちろん、子供用にアレンジしているかもしれないが、それは、
「その先にある大人の習字(書道)」への道を示すものだ。
「子供はこう書くのがよい」という「子供用としてしか
使えないお手本」は、ほぼないのではないか。
 
絵はどうだろうか。これは、お手本らしいお手本はないようだ。
子供たちに聞くと、「先生は描くものをよく見ろ」と言うだけだそうだ。
それはそれでよいかもしれない。
そうであっても、普段の図画や美術の時間に、練習をし、また、ときに
指導を受けているのではないだろうか。
 
付記:
作文はどうだろうか。
「子供の作文」には、当然、「子供の感想文」と同じ問題がある。
しかし、幸い、お手本はふんだんにある。
小学校の国語の教科書にある文章は、みな、大人が本気で書いた
文章である。そして、その読み方の指導受けている。
だから、子供たちは、自然に、お手本に親しんでいることになる。
もちろん、「子供の作文」も「子供の感想文」と同様で、
「子供らしさ」などというもので、評価されることもあるだろうが、
それだけではないようにも思う。
 
3.なぜお手本にこだわるのか
「フォーマットはないんですか」
「前任者の書いたものがあれば見せてください」
「前にそれを行ったときはどうだったのでしょう」
「他社の事例を調べてみましょう」
「他業種のやり方にアイデアがないか見てみましょう」
まあ、大人は口を開けば、「お手本をくれ」と言っているではないか。
(「お手本」ではなく「参考例」?
 でも、本当にほしいのは、やっぱり、「お手本」でしょ?)
それなのに、子供の感想文(や作文)のときだけ、
「自由に書けばよい。お手本はない」とはどういうことだろうか。
人生、なんにでも、お手本が必要なのは明らかだと思う。
 
「自分の言葉で書くべきだ」という人がいる。
基本、賛成だ。
しかし、「自分の言葉」は「自分が発明した言葉」ではない。
みな、どこかで習い覚えた日本語を、つなぎ合わせて
使っているはずだ。習い覚えたものには、単語だけでなく、
文章の構成法や表現の技法も含まれる。
たとえ、本人が、最初は人まねだったことを忘れていても。
要は、「覚えたものを消化して使っているか」だろう。
しかし、消化する前に、覚える必要はあるはずだ。
 
そもそも、子供は、言語経験が少ない。
「まねをしてもよいお手本」は、あればあるほどよいのではないか。
実際、「単なる文章」なら、国語の教科書にたくさんある。
問題は、感想文の場合、「まねをしてもよいお手本」を大人が、
なかなか供給できないところにあるのではないだろうか。
 
ただ、「安易にお手本を与えると、かえって子供の可能性を
うばってしまうのではないか」という心配はある。
「自分で努力する気持ち」の芽を摘むことにならないか。
また、その「お手本」は適切なものか。
私は、いつも、不適切なお手本を与えてしまうことに、恐怖を感じる。
しかし、何も与えないのは、単なる教育の放棄でしかないと思うのだ。
 
4.どんなお手本ならよいのか
しつこいがもう少し。
どんなお手本なら、自信を持って与えることができるのか。
私は、お手本は、一般に、「一流作品」がよいのではないかと思う。
(「何が一流なんだ」というツッコミはある。)
たとえば、書や絵なら、展覧会や美術館にいって見せるのがよいのではないか。
音楽なら、一流とよばれる人たちの演奏を聞かせるのがよいのではないか。
すぐにまねできなくても、目指すべきものが見えてくる。かもしれない。
 
・・・なんて書いても、我が家では、それは、なかなか実行できていない。
お金も時間もかかるし。それに、まあ、芸術家に育てたいわけでもないし。
 
しかし、「文章を書く能力」は、必須で身に付けてもらいたいと思う。
ラッキーなことに、それなら、お金はあまりかからないはずだ。
「よい文章」があれば、おそらく、数百円(高くても千数百円)で買えるから。
さて、「一流の小説」(とんでもなく変な言い方だが)は、ある。
しかし、「一流の感想文」は、、、おそらく、ない。
(「評論」はある。が、それは子供が参考にできる「感想文」ではないと思う。)
 
ここまでのまとめ
ここまで読んだ奇特な人は少ないと思うが、もし読んでいただけたなら、
私の言いたいことは伝わったのではないだろうか。
しかし、これは、「アンチ感想文」ではない。
そもそも、子供に感想文を書かせることは、大賛成なのである。
(疑うようなら、前日分を読んでいただきたい。)
 
また、市販されている「非公式なお手本」を否定するものでもない。
実際、これから、その話に入りたい。