あなうめ感想文を擁護する

国語の話をはじめてまだ決着がついていないが、ちょっと、別の話。
でも、関連は大いにあると思う。
 
ちょっと前に、
 
 必ず書ける あなうめ読書感想文 粟生こずえ著 青木伸生監修
 
という本を見つけ、おもしろいと紹介した。
ところが、最近、ネットサーフィンをしていて、どうも批判者が多いことに気がついた。
もちろん、批判される方にはちゃんと理由があり、それを再批判するつもりはない。
ただ、私なりの考えを書いておきたいと思った。
以下、章立てをして。
 
1.「課題としての感想文」は、うさんくさい
私は、このブログで何度も書いているように、先生批判や学校批判はあまりしたくない。
少なくとも、子供の前ではしない。
しかし、「課題としての感想文」は、「うさんくさい」と思う。まずはその話から。
 
「課題としての感想文」には、次のような工程がある。
 
 1 本を読む
 2 感想文を書く
 3 先生がチェックし、評価する
 4 できのよいものは表彰される
 
感想文を書くためには、本を読まなければならない。したがって、課題に感想文を課すのは、
「本を読ませるため」と考えることもできる。その考え方には、賛成だ。
子供には本を読ませてほしい。
さて、「本を読んだら、その本について何か書いてみる」ということは、いろいろな意味で、
よいことだと思う。賛成だ。
そして、子供が書いたものを、先生がチェックし、評価してくれる。
なんてありがたいことだろう。
 
なのだが、この辺で、少々あやしくなる。
「感想文の評価」とはどのようにされるのだろうか。
世の中に「感想文の課題がきらいだ」という人は多いと思うが、その大きな理由は、
「評価の基準がわからない」ではないだろうか。
先生は、「思ったことを自由に書いてください」なんて言う。
しかし、それでも、先生にほめられ、ナントカ賞までもらう感想文もあれば、全っ然っ
ほめられない感想文もある。
 
一応言っておくと、私は、「それでよい」と思っている。
つまり、「賞を取る感想文」にはそれなりの何かがあるから、賞に値するわけだ。
逆に、賞を取るも何も、先生も全然ほめてくれないような感想文でも、(反社会的な
感想文などは困るが)、それはそれで、「よいもの」だと思う。
私は、それらの感想文に、大した優劣はない、と心底思う。
 
が、世の中そんなに単純ではない。
賞を取る感想文とそうでない感想文があれば、「前者の方がよい」と考えられる。
すると、「思ったことを自由に書いてください」の精神は、どこかへ行ってしまう。
 
子供の感想文には、「大人に好まれる感想文」と「大人に好まれない感想文」がある。
たとえば、子供が、感想文で「現代社会の閉塞感と人間性への諦観」を語ったとしよう。
たぶん、あまり評価されないだろう。
理由は、「子供らしさがない」からだ。
「大人に好まれる感想文」は、子供らしい素直さ、真剣さ、自己分析、未来への希望
なんかが、盛り込まれていなければならない。のだと思う。(違います?)
確かに、そういう感想文は、読んでいてすがすがしい。
しかし、子供だってバカじゃない。
そういう「大人受けする内容」を、意図的に書くことも、また、意図的に避けることも
できるのだ。
(息子は、小学校の高学年時に、そのような会話を友人たちとしたらしい。)
 
以上のような事実から、私は、「うさんくさい」と思うのだ。
あれ?日本語変ですか。確かに、「うさんくさい」はちょっと違うかも。
でも、他にいい言葉が見つからない。
それに、以上のような事実を傍証し、「うさんくさい」という言葉を私に想起させる
事実がある。それは、「子供の感想文にはお手本がない」という事実だ。
 
以下続く。