国語の先取り学習・先行体験

前に、「先取り学習vs先行体験」ということを書いていて、ほったらかしの話がある。
国語だ。国語は難しい。でも、ちょっと考えてみたい。
解決するかどうかわからないが。
 
国語の最大の難しさは、極めて、「個人的なもの」とつながっていることだと思う。
 
数学の場合、「個人」を超越したスタンダードが、はっきりある。
たとえば、「○○の証明」と言った場合、その書き方はだいたい決まっている。
「数学が得意な人」が「○○の証明」を書くときに迷いはないし、そういう「数学が
得意な人」になる道程もはっきりしている。(数学の教科書を読めばよい。)
しかし、国語の場合、たとえば、「主人公の気持ちを述べよ」などという場合、
その記述は、かなり「個人に寄るもの」になってしまいそうだ。
ところが、ややこしいのだが、それでも、スタンダードはある。
「このような場面でこのような事件が起これば、主人公はこう感じる」という
ことも、そのための記述方法も、実は、ほぼはっきり「正解」がある。と思う。
(もちろん、文体などにバリエーションはあるだろうが、それは、数学でも同じだ。)
ここでいやなのは、そのスタンダードが数学のようにはっきりしておらず、
しかも、その教育方法はもっとはっきりしていないということだ。
たとえば、国語の先生が授業で、「感じたことを自由に書いてください。
それでいいんですよ」なんて言うこともある。
しかし、本当に自由に書いたらダメ、ということもあるのだ。
 
たとえば、「主人公が病気の友人を見舞いに行った」という場面があったとしよう。
そこで、「主人公(子供)が、いじめっこだった友人の腕が、長い入院生活でかなり細く
なっているのを見てハッとした」としよう。
で、「主人公の気持ちを述べよ」なんて問題が出る。
そこで、「今ならケンカしても勝てると思った」なんて書いては、たぶん、いけないのだ。
もちろん、それが「正解」である物語もあるだろう。
しかし、ここでは、「友人を気の毒に思い、しかし、気の毒に思うことが、この友人を
傷つけるのではないかとも思う気持ち」とか「病気に対するやりきれない気持ち」なんか
が正解だとしよう。(ひねってるでしょ?)
そのような「正解」があるには、それなりの根拠が文中に示されているはずだ。
しかし、問題になるくらいだから、その書き方は「かすか」でもある。
大人にはそれがわかる。しかし、男の子なら、そんなかすかなヒントには目もくれず、
「ケンカ」のことを考えるかもしれない。
 
もしかすると、授業では、それでよいのかもしれない。
「○○君は、そんな風に思ったんだ。はい。じゃ、ほかの意見の人は?」なんてね。
でも、入試の国語の問題なら、ケンカの答えは、かなりまずいだろう。
入試の国語なんかにこだわることはない?
そうとも思えない。もちろん、入試をクリアするという現実的な意味もあるが、
やっぱり、「今ならケンカしても勝てると思った」ではいけないのだと思う。