「ズルは損だ」と思う

私はズルはいけないと思う。
理由は、ズルをすると、たぶん幸せになれないから。
って、宗教の話ではありません。
ズルをすると損をすると思うからだ。
いえ、だから宗教じゃありませんって。
 
ズルをすると信用をなくし、そのために、結局損をするとも考えられる。
それもあると思う。
しかし、それならバレないようにやるとか、信用を失ってもかまわない人の前で
だけズルをすればいいじゃん、となりそうだ。
信用問題だけなら、そうかもしれない。
しかし、「ズルは損」には、もっと他の理由があるのだ。
 
たとえば、並んでいる列に横入りとか、ちょっとしたことでズルをして、
シメシメという顔をする人もあるが、大抵、そういう人は幸せそうに見えない。
その場ではしてやったりという感じだが、なんだかつらそうな人生に見える。
(政治家とか大金持ちとかは知らない。そんな知り合いはいないから。)
 
ズルというのは、基本的に、自分のためにならないことが多いと思う。
たとえば、「宿題を友達に見せてもらう」というようなもの。
本人は「宿題をやらなくて済んでラッキー」と思っているのかもしれないが、
実際のところ、少しも得をしていない。と思う。
むしろ、自分を鍛えるチャンスをみすみすドブに捨てているだけだろう。
特に、子供はいろいろなことに真正面からぶつかって成長するのだと思う。
宿題でも、(許容範囲内の)ケンカでも、一見無意味なガマンでも。
子供がズルをしているのを見ると、本当に気の毒に思う。
「そんなに若いうちから自分の人生を捨てちゃうのか」と。
 
ズルをするのは、ほんのちょっとだけで、しかも緊急避難的な
どうしようもない場合に限っているという人もいるかもしれない。
緊急避難なら、まあ、他人に迷惑をかけないかぎり、ズルしてもいいかな。
しかし、本当に、緊急避難だけで済むのだろうか。
一度ズルをして、それを深く深く反省するなら、まあ、いい。
しかし、一度ズルをしてしまうと、これからもズルをする可能性が高くなる。
そうして、どんどん自分の成長の可能性を捨てていくことになる。
 
それでは、「列に横入りする」なんかは、他人には迷惑だが、本人には
得しかない。だろうか?
私にはそうは思えない。
確かに、「横入り」だけ見ればそうかもしれない。
(「ガマン強さを鍛えるチャンス」や「人と協調するチャンス」
 「時間をつぶす方法を身に付けるチャンス」は捨てているのだが。)
しかし、その人は、「並んでいる列を見ると横入りしたくなる人」で、
「他のことでは一切ズルをしない人」ということはないと思う。
「ズルをする」というメンタリティができてしまえば、どこでも、可能なら
ズルをするのだと思う。そして、多くのチャンスを捨て、トータルで損を
しているのだと思う。
 
人間社会にはルールがある。このルールはときにめんどくさい。
そして、ときに理不尽だ。
だから、ほんのちょっとだけルールを破ってみたいこともある。かもしれない。
ルールの重要性をここで繰り返すのはやめよう。
しかし、ルールというのは、使う側にとっては、極めて強い武器になる。
人間社会では、ルールを使いこなす人が、より成功していくのではないか。
(もちろん、例外も多々あるようだが。一般的に。)
私は、ズルをする人は、ルールを使いこなせないのではないかと思う。
ルールにしばられる経験なくして、そのルールの本質はわからないと思うからだ。
(サッカーの試合などでは、微妙なところでわざと「反則」をして味方を有利に
 する、などということが行われる。これは、少し違う話かもしれない。
 あえて言えば、「反則」すら、ルールにのっとって行われているのでは?)
 
「心を磨け」というのは、決して、「神様が見てるから」などという、宗教的
な教えではなく、実際的な教えだと思うのだ。