ゆとり教育再論

最近、「ダイヤモンド」という雑誌を買った。
私の嗜好とは違う方向の雑誌だが、特集の「学力大不安」に惹かれて。
教育ヲタと化した私には、「これは初耳」というものはほとんどなかったが、いろいろ
な意見やデータをよくまとめてあり、正価670円以上の価値があった。
 
特に興味を引いたのは「ゆとり教育」の推進役と言われた寺脇研氏のインタビューだ。
その中で、「日本の国力は衰退していないか。未来を託す子供の学力低下は心配、
という人が多い」という質問・意見に対して、次のように答えている。
 
寺脇氏:驚くばかりだ。いまだに日本経済は右肩上がりで成長しなければいけないとか、
世界第二位の経済大国を維持したいなどと考えている人がこんなにも多いものか、と。
(以下略)
 
寺脇氏の著作は読んでいないが、この意見を読んで、なるほどと思った。
そして、思い出した話がある。「強育論」の宮本先生の記述だ。
宮本先生は、「ゆとり」という言葉と「教育」という言葉は結び付けにくい。「ゆとり教育
という言葉には「楽しい殺戮」という言葉くらい違和感がある。「ゆとり」に合うのは
「老後」などという言葉だ、という主張をされていた。
これを読んだとき、その皮肉ぶりに、不覚にも大笑いしてしまったのだが、宮本先生の
ご意見に、賛成である。
で、寺脇氏の話に戻ると、実は、「寺脇氏の考察」は、宮本先生のそれとあまり遠くない
ところにあると思ったのだ。
 
上記の言葉をそのまま取るなら、寺脇氏は、日本は、「経済的には、もう成長しない」
「世界の中で相対的な地位は落ちていく」ということを前提にしている。それは、つまり、
「日本国自体が老後期に入った」ということではないか。
これから生まれてくる子供たちは、もちろん、新しい生を持って生まれてくるわけだが、
いきなり「国家として老後」を送ることになるわけだ。
少々極端な言い方をしたが、まあ、そういうことになると思う。
そのような社会に求められる教育は、「ゆとりの教育」である、と、寺脇氏は主張している
ようだ。これは、宮本先生の「ゆとりという言葉に合う言葉は老後」という主張と、
おもしろいように合致する。
 
私は言葉遊びをしているのでも皮肉を言っているのでもない。
極論的な言い方を選んではいるが、「寺脇氏の考察」を、自分なりに表現しようとしている
だけだ。このような意味での「ゆとり教育」は、決して、「新しい日本を牽引していく人材
を育成する」ものではないだろう。むしろ、「成熟した社会で人生を楽しめる人間」のため
にあるのではないか。
学力が下がっても、それは、そんなに重要なことではないのだ。
 
寺脇氏は、「ゆとり教育を批判する人びととは、国のあり方についての基本的な考え方から
して合わない。だから、教育議論もかみ合わない」と言っているが、確かにそうだろうと思う。
根本の違いは、教育方法ではなく、「この国が今後どうなっていくか」あるいは、「どの
ようにしていくべきか」に関する認識の違いなのだから。
しかし、それなら、「ゆとり教育」支持者の大部分とも、意見が合わないのではないかと思う。
たとえば、最近まで言われていた「生きる力」とは、どちらかと言うと、「困難を乗り越えて
生き抜く力」のように議論されていたと思うが、寺脇氏風に考えるなら、それは、「先達が
残してくれたものを享受しながら生きる力」ということになるのではないだろうか。
 
さて、私はどう思うか。
確かに、日本は経済的な成長期を終え、世界の中での相対的な地位も落ちてきている。
それは、事実だと思う。
国が老衰を向かえるとき、その国にどんな教育が必要なのか、私には想像もつかない。
「官製教育(国が行う国のための教育)」は、もはや意味をなさないのではないかとも思う。
そのことの言い変えが、「ゆとり教育」ではないだろうか。
繰り返すが、「困難を生き抜く力をつけるため」とか、「世界のリーダーシップを取る人材を
育てるため」の「ゆとり教育」など、ナンセンスだ。
そういうことを言っているのではない。のだろう。
とすると、私は、寺脇氏のご意見に半分賛成である。いや、えーと、8割くらい賛成である。
いや、えーと、もしかすると、99%正しいのかもしれない、と思う。
 
ただ、「日本国の老衰を止め、新たな成長を促す方法が絶対ない」と言い切るのに躊躇するのみである。