先生の教え方、わからないということ

「あの先生の教え方がよくなかったので、アレを理解するのに時間がかかった。
 アレは××××××××××のように教えた方がよい。」
という話をよく聞く(見かける)。
アレには、三角関数やら微積分などが入る。
××××××××××には、その教え方が入る。
実際問題、その先生の教え方が悪かったのかもしれないが、このような発言の大半は、
見当はずれな憂さ晴らしだと思う。
(まちがったことを言う先生も、たまに、いる。それは悪い。ひたすら悪い。
 そういう先生は別。)
 
「わかる・わからない」や、わかり方は、人によって違う。
その先生の教え方で、もっとすんなりわかった人もいるはずだし、逆に、結局
終生わからない人もいる。それは、集団教育の限界だ。
この発言者は、結局のところわかったのだから問題はないだろうと思う。
むしろ、その点に感謝するべきではないだろうか?
また、「理解するのに時間がかかった」というのは、必ずしも悪いことではない。
時間をかけて理解したものの方がいろいろと役に立つはずだ。
 
私は、幼稚園のときに、右と左がわからなかったことがある。
たとえば、先生が、人(マサル君としよう)と車が描いてある絵を見せて、
マサル君は車のどっち側にいるかな?右かな左かな?」などと言う。
みんながいっせいに「右!」なんて言うのだが、私には全然わからない。
その話を母親にすると、今度は、母親が絵本で同じことをする。
幼稚園でわからなかったことが、家でわかるはずはない。
母親は、自分の子供のできの悪さに愕然とする...。
その様子を見て、私は、自分には重大な欠陥があるのかと、不安におののいた。
 
正確ではないが、だいたいこんな感じだった。
そんな昔のことを覚えているほど、私には、恐怖の体験だったのだ。
そして、ずっと、「幼稚園の先生の教え方がよくなかったのだ」と主張し続けてきた。
しかし、今になって思うと、左右がわからなかったのは、私の個性の問題で、
先生の教え方に問題があったのではないと思う。
実際、私を含む1、2人以外の全員が、立派に左右を理解したのだから。
 
最近は、小学校の授業(特に算数)を見学して強く思う。
何かを子供が理解できないとしても、それは、「その子供の頭が悪いから」でも
なければ、「先生の教え方が悪いから」でもない。
それは、その子に与えられた試練なのだ。
(大人がその試練を乗り越えるのに、適度な協力をするのは、また別の話。
 私は、結局、大人の助けで、「左右問題」を乗り切ることができた。)
 
私は、左右がわからなかったおかげで、「左右とは何か」とか、「わかるとは
どういうことか」なんて、哲学的なことを深く深く考えることになった。
それは、私の利益であったと確信している。
 
ちなみに、小学校のときは、「時計の読み方」がわからず苦労した。
これも、クラスでかなり遅い方(最後くらい?)だったらしい。
そのことを母親面接かなにかで先生に指摘され、母親は、涙目で家に帰ってきた。
中学校では、「空集合」(の表記方法)を理解するのに時間がかかり、高校では
微分積分」が。
あー、よく生き延びたなー。
 
後記:
もし、「あの先生の教え方がよくなかったので、アレを理解するのに時間がかかった。
 アレは××××××××××のように教えた方がよい。」
と思うことがあったら、その先生はどうして、××××××××××ではなく、
△△△△△△△△△△と教えたのか、考えてみるとよいと思う。
もし、その「アレ」をよく理解できたのなら、その先生がどうしてそんな風に教えたのか、
あるいは、教えざるを得なかったのか、よくわかるのではないかと思う。