ほめる教育

漫画のドラゴン桜で、「先生は生徒をひたすらほめるべき」という話があった。
はじめに言っておくと、私は、ドラゴン桜を漫画としておもしろいと思うし、
また、全般に非常に参考になると思う。
特に、批判したいわけではない。
が、この「ほめる教育」については、意見がある。
 
ドラゴン桜で述べられていたことは、「理由があまりなくてもほめる」あるいは
「理由がなくてもほめる」「ひたすらほめる」というものだったと思う。
(記憶だけなので、間違いなら、訂正していただきたい。)
私が中高生であった頃からつい最近まで(ゆとり教育が定着し、少子化の影響がはっきり
見えるようになるまで)、そのような発想はあまりなかったと思う。
「ほめる」のは「ほめる理由があったとき」であり、「理由があればほめるし、なければ
ほめない」のが自然である。
 
この「(ひたすら)ほめる教育」は、「すばらしい発想であり、有効な方法」だったと思う。
しかし、同時に、「一時的にしか有効でない方法」であると思う。
考えてみれば(考えるまでもなく)、この方法が有効なのは、それまであまりほめられた
ことのない子供たちに対してだろう。あまりほめられたことのない子供がほめられれば、
うれしいだろうし、がんばろうという気持ちにもなるはずだ。
しかし、いついつもほめられていれば、そんな気持ちはなくなっていくのではないか。
ドラゴン桜では、ほめ方を変えていき、いつも新鮮であるようにと、工夫が述べられていた。
確かに、そのような工夫も役に立つだろう。
しかし、世の中全体が「ほめる教育」に傾いていけば、いずれ限界があると思う。
 
私たちの世代の大部分は、それほど大人にほめられていないように思う。
だからこそ、「ほめられること」の価値がわかる。
だからこそ、「理由が(あまり)なくてもほめる」ということに、新鮮な驚きをおぼえ、
感心してしまう。
繰り返すが、この方法は、実際に、かつて非常に有効だったと思うのだ。
 
しかし、「ほめる」ことが有効なのは、「しかる人」「けなす人」がいてこそだ。
ところが、そういう役割は、今やババと同じだ。誰も、ババを引きたくない。
進んでババを引いて「嫌われ役」を買って出る人がいても、少数派の悲しさ、子供たちには、
「あの先生(人)はおかしい」で片付けられてしまうのではないか。
「あの先生は子供の気持ちをわかってくれない。やめさせるべきだ」なんて言い出す子供も
言るそうだ。
「しかる人、けなす人は、学校の外にいる」というもある。
「学校内では甘えが通じるけれど、世の中は厳しい」と。
ところが、「世の中は厳しい」と思っている子供は少ない。
「別に就職しなくても生きていけるよ」という若者の数がそれを示している。
 
何が言いたいかと言うと、「ほめる教育」は有効だと思う。
しかし、なんらかのバランスがなければ、それは「愚民教育」でしかない。
そして、現実の教育は、すでにそうなっているのではないか、ということだ。
(もちろん、例外はいつでもある。)