学習・教育は妄想との戦い

学習法・教育法ほど、人々に関心を持たれ、しかも実証しにくいものはないと思う。
だからか、教育法のほとんどは妄想だと思う。
そして、学習したり、教育する人が最初にするべきことは、そういう妄想の排除だと思う。
以下に、論じてみたい。
 
・「知識より知恵が重要」という妄想
いや、この表明自身は、正しいと思う。それでも、おかしいと思う。
これは、「心臓より脳の方が重要」というような表明にも似ている。
確かにそうかもしれないが、じゃ、心臓は必要ないのだろうか?
そんなはずはない。
だから、「心臓より脳の方が重要」と言っても、心臓を軽視する人は少ないだろう。
しかし、わざわざ「知識より知恵が重要」という人の言外の意図は知識軽視だと思う。
しかし、知識がなければ知恵も存在できないと思う。
 
知恵は知識の上に立っているのだから、実は、「知識より知恵が重要」というのは
「市民より王様・大臣の方が重要」というのにも似ている。
もちろん、間違っている。
 
・「なんでもネットで調べられる時代に暗記なんか不要」という妄想
上の妄想の続きであり、極めて悪質な妄想だと思う。
人は、「聞きたいことを聞く」という傾向がある。
世の中の大部分の人は、暗記が嫌いだと思う。実は、私も苦手だ。
だから、偉いセンセーが「暗記なんか不要」なんて言うと、大喜びする人は多い。
しかし、そんなことを真に受けてはいけない。
その大先生が、どのくらいたくさんのことを覚えているかを知ったら、みんながっかりするだろう。
 
ただ、「暗記」を「丸暗記」「機械的暗記」(意味は不明だが)と言って嫌っていても
「考えれば自然に覚える。自然に覚えれば良い」などと言う人もいる。
それならそれで良いと思うが、覚える手段が「ゴロ」とか「チラシの裏への書き込み」ではなく、
「いろいろ考える」というだけで、「その人も覚えている」という事実は変らない。と思う。
 
「覚えようとせずに覚える」ができれば、それがベストかもしれない。
しかし、それは上級者向きである。ということは、考えればすぐわかると思うのだが。
そして、それができなければ、せめて覚えようとして覚えよう。
 
・「時間ならいくらでもある」という妄想
個人に与えられた時間は有限であって、いくらでもあるはずがない。
 
・「いつでもやり直せる」という妄想
何か大失敗をして落ち込んでいる人を慰めるには良い言葉だろう。
しかし、真実ではない。
そんなことは、誰だって知っているはずなのに、これも「みんなが聞きたがる言葉」なのだ。
 
それにしても、一度も失敗しない人間なんかいないと思う。
だから、失敗しても、それを受け入れて、その後のことを考えるのが正しい人生だろう。
それをもって「やり直し」と言いたければ止めないが、普通のニュアンスとは違うと思う。
 
上記の表名の殊に悪質な点は「いつでも」だと思う。
「いつか会いましょう」の「いつか」みたいなもので、実際には、いつなのか誰にもわからない。
結局、「いつまでも本気を出さない」ということになりかねない。
 
・「好きなことをずっとやっていれば幸せになれる」という妄想
議論するまでもない妄想だと思う。
あるいは、成功者の自慢話だったり、小遣い稼ぎのネタ(本を書いたり、講演したり)だと思う。
 
・「今、つらい思いをしても、あとで楽になる」という妄想
上記の逆のタイプの妄想だと思う。
楽しければ良いわけではないように、つらければ良いわけでもないと思う。
勉強が「つらい」なら、やり方に問題があるのだ。
問題があるのなら、いつまでたっても楽にはならないと思う。
 
ただし、たとえば、「勉強はじめの10分くらいはつらい。そこをすぎると楽になる」などと
いうことはあると思う。(スポーツでもよくある。)
ここで言っているのは、そんな短期間のことではない。
また、「勉強しても成績が上がらず、つらい」ということもある。
(ちゃんと勉強していれば、たぶん、3カ月くらいだろうと思う。)
それは「勉強がつらい状態」ではなく、「成績がつらい状態」なので、違う話である。
 
結果より「つらい」という状態に自己陶酔してしまう場合も危険だと思う。
あるいは、「生徒をしごいている」という状態に先生が自己陶酔するとか。
(そういう陶酔は、「3年間がんばり続ける」なんて言いながら、普通1カ月ももたないと思う。
 しかし、それを「何度でもやり直せる」とか言って何度も繰り返すのがとても危険だ。)