もう少しまじめに

大阪大学文学部長の金水敏先生のお話だったという。
(関係ないけど、「先生」を「さん」と言うのはものすごく違和感がある。)
 
はじめに言っておくと、私は文学部不要論には賛成しないし、この先生のお話も有意義だと思う。
で、批判ではなく、思ったことを書きたい。
 
「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」
「恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、
 自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、
 自らの死に直面したとき、等々です。」とのこと。
 
理系という一括りだと「有用」と言われそうだが、実際、なんだか怪しいのが我々の古巣理学部である。えへん。
我々(とその仲間たち)が大学でモソモソやっていた(いる)ことが何かの役に立つのかどうか。
理学部の人は、しつこく聞かれた場合、「今は役に立たなくても、将来役に立つかもしれない」と答えるのが
テンプレートだと思う。
 
ここで「役に立つ」というのは、「社会の役に立つ」という意味である。
一方、金水先生の言う「役に立つ」というのは、「自分の役に立つ」である。
この差異がとてもおもしろい。(くどいが、批判しているのではない。)
 
大阪大学は押しも押されもしない国立大学である。
国税を使っておそろしく(たぶん)優遇された環境を整えて、そこで本人が「恋人にふられたとき」なんかに
対応できるよう、学問を修めているというわけである。
この発想自体が、私には驚きであり、人の考えは計り知れないと思うのである。
 
それでは、そういうことに国税を投下する正当性は何だろう。
つまり、国立大学文学部の出身者が恋人にふられたりしたときに、大学で学んだからこそ、その危機を
乗り越えられたとして、「そのために、その人に何の関係もない人たちの税金が使われた」ということを
どう正当化するのかということである。
たとえば、「公立小中学校で日本人全員をそのように育てる」ということなら(本気なら、それは狂気だと
思うが)税金を使う意味はわかる。
しかし、難しい入学試験に合格したほんの一握りの人たちにそういう教育をする意義をどう考えているのか、
知りたいということである。
えーと、本当に、皮肉とかではない。私は、いろいろな意味で、真に理論屋だから。
 
ちなみに、私個人の意見を聞かれるなら、「最初はびっくりしたが、考えてみるに、正当だと思う。
人生の問題に対処できる(「スッキリ解決できる」とは言わない)知性の高い人が、多くなくとも、
社会に存在することは、社会に取って有益だと思う。彼らが社会の灯台になってくれるかもしれないからだ。
だから、そのために税金を使っても良い、むしろ、使うべきだと思う」と答える。
 
ちなみに、理学部の人は、「いつか社会の役に立つ(かも)」なんて言っていて、本気の人はそうはいない。
本当は、「おもしろいからやってるだけさ」だろうと思う。
そこにも、莫大な税金が(たぶん、文学部よりずっと多い)投下されているのである。
もちろん、ナンにも悪くない。と思う。
(それをやらなければ、国際競争にも負けるだろうし。まあ、国際競争なんてくだらないけど。)