付記

具体的に書いてみたい気もするが、私にはまだ時期尚早だろう。
一般論を書くと、よく「あれ?こんな簡単なことをなんでゆっくり説明してるんだろう?」とか
「え?すごく難しいと思うんだけど、説明なし?」と思うことがあった。
過去形(仮に小過去としよう)である。
それよりもっと前(大過去?)では、そういうことすら感じなかった。
 
25mプールを小学生が泳ぎ切ることにたとえて言うなら、上記の大過去時代は、
ただ必死でバタバタやっていて何がなんだかわからない状態。
小過去時代は、「なんだか、ときどきつらい場所があるなぁ」と思うような状態。
でも、どういうときにきついのかはあんまり説明できない。
で、現在はというと、そういう難所や緩急がわかるようになった気がする。
25mプールにたとえれば、「泳ぎだしに水に乗れないとつらいよな」とか「最後10mはきついよな」とか、
だんだん様子が分かってきた感じである。
 
数学の話に戻すと、最近は、「ああ、これ。数学の人には、これが大事なんだろうなぁ」とか
「この先生(著者さん)は、ここを強調したいんだな(たぶん)」とか、思えるようになってきた、
ということである。(もちろん、妄想の可能性は否定できない。)
 
ところで、本を読んでいて難しい箇所がある。
その理由は、次のうちのどれかだろうと思う。
 
・私の基礎知識(数学者の常識)が足りない。
・私の理解が足りない。(困った、困った。)
・著者に詳しく説明する気がない。
  (「だって、つまんないんだもん」「面倒だから」「この本の主題じゃないから」
   「ちょっとしたナゾかけさ」)
・著者が(理由はわからないが)推敲をちゃんとしてない。
 
これらは推測するしかないが、推測することで、対処できるようになってきた。と思うのだ。
その推測が間違っていることもあるだろうが、それでも、前進のよりどころにはなった。と思うのだ。
 
それで、「著者の説明する気」(推敲も含めて)はリズムから推測できる気がするのである。
そして、著者がやる気マンマンのところで私が理解できないなら、私の責任だとわかる。
著者の都合でわからなそうな場合は、「俺のせいじゃないもんね〜」と思ってダメージがかわせる。
一応言っておくと、「いつもリズムから何かを推測しようとしている」というわけではない。
なんだか、自然にわかるようになった気がする。ということである。えっへん。