考えさせる教育5

先生が「理解しろ」と言い「適用しろ」と言う。
しかし、たぶん、「わからない生徒」はどうすればよいかわからないと思う。
そこで工夫が行われる。
 
まず、「理解」だろう。
たぶん、やさしい言葉を使って、段階を踏んで、自分の失敗談を交えながら、説明する。
すばらしいことだと思う。
 
しかし、皮肉なことに、そういう説明は、生徒に考えさせていないことにもなる。
その辺からアクティブラーニングに行ってしまうのだろうけど、今その話はやめたい。
実際、わかりやすい説明というのは、要注意なのだ。
わかりやすい説明は重要だし必要だが、いつまでもそれではいけないのだ。
理由は「生徒が考えなくなる」からだ。
 
ところで、生徒の理解度はどうやって測定すればいいだろう。
それは、単純、テストをすればいいのだ。
「求める理解度」に応じた難易度のテストをやって合格点が取れれば、一応、「良し」とできる。
それしかないのではないだろうか。
(「会話によって理解度を知る」もできるだろうけど、なぜ、そんな労働集約型のことをする
 必要があるのだろう。しかも、見落とし率は高いと思う。)
だから、「テストを重視しない」というのは「理解を重視しない」とほぼ同義語だと思う。
 
テストと言うのはちょっと残酷なところがあって、「わかってたのに間違えた」などもある。
だから、一度のテストで取り返しがつかないようにすべきではないだろうか。
それはつまりテストの回数を増やすということだ。
じゃんじゃんテストをやりましょう。
一方で、「わかってたのに間違えた」というのは本当は「わかってなかった」ということも多い。
「わかってなかった」を探すためにテストをしているのだから、それで人生が決まらなければ、
直せばよいだけのことである。
だから、じゃんじゃんテストをやりましょう。ただし、「良いテスト」を。
 
それにしてもテストが嫌いな人は多い。
なぜだろうか。
私が思う理由は次の通り。
 
理由1 事前準備が大変。
理由2 (テストを受けることが)疲れる。
理由3 悪い点を取ると悲しくなる。
理由4 悪い点を取ると叱られる。
 
理由1と理由2は、テストが正しく行われている証拠であって、悪い事ではないと思う。
疲れるからといって体育をしないでよいはずがないのと同じである。
と言うか、適度に疲労するのは、「考えた」証拠であり、推奨される。
 
理由4はご家庭次第ということになる。
これはこれで重大な問題だが、絶対に回避できない問題でもないと思う。
 
最大の問題は理由3だろう。
この問題を回避するために、「テストをやめる」があるが、それはやめてほしい。
また、「テストをやさしくする」というのがある。
たとえば、全員が100点を取れるようなテストである。
この「全員」には、「まったく努力をしない子」も含まれる。
これは、テストをやめたのと同じである。
 
テストの点数が低いと悲しくなるのは、実際には、相対性の問題だと思う。
つまり、何点だったかが重要なのではなく、「友達の○○ちゃんとくらべてどうか」と
いうことが重要なのだ。
ずっと悪い点なら、それは、やる気もなくなるだろう。
 
一つの案に「過去の自分と競う」というのがある。
つまり何回か同じテスト受けて、その成長度を見るというものである。
私は、この方法自体は、「定着度アップ」という意味で強く強く推奨したい。
しかし、理由3の回避策としては、微々たるものだろうとも思う。
 
この問題を完全に回避する方法を私は知らない。
しかし、だからと言って、テストをやめてはいけないというのが私の主張である。
テストをやめたら「理解度のチェック」ができなくなる。
(教員による印象評価は恐ろしい。)
それに、テストをやめても「競争」はあり、悲しい思いをすることはあると思うのだ。
ただ、勉強ということを考えるなら、テストはちゃんとやらなければならない。絶対に。
 
サッカーが苦手な子がいるからと言ってサッカーのルールを変えることはないですよね。
学校内でルールを変える先生がいるかもしれないけれど、それはサッカーではないのである。
そういうことをしてはいけないと言わないが、ずっとそればかりをやらせて、
変形サッカーを「こればサッカーだよ」と教えたりしてはいけない。