考えさせる教育2

人は考えなければいけないとき、たぶん、考えるだろう。
もしそれで十分なら、それ以外にすることはない。
以上、終わり。である。
 
だから、「考える」を教育に取り入れたい人には何か特別な理由があるのだろう。
つまり、「考える力」が必要であり、それを身に付けさせたい、と。
なぜ「考える力」が必要だと、彼らが思うのか。
想像するしかないのだが、たぶん、次のようなことが考えられる。
 
1.テストで良い点を取るため。
2.人生で良い選択をするために。
3.会社や役所に入って上司に好まれる企画を立案するために。
 
最近流行のアクティブラーニングが重視しているのは項目3だと確信している。
だって、そんな話ばっかりだもん。
学校内でのそういう教育はうまくいかないだろうと思うのだが、うまくいったとしても、
なんともショボイと思ってしまうのは私だけではあるまい。
 
教育者は項目2の話をしそうである。
これは確かに重要だ。そのために、学校で学ぶ。うん、すばらしい。
具体的には、2分毎に異なるペアを組んで話し合い、次に班で意見をまとめ、発表会だ!
、、、と、問題は大きいけど、教育はショボイ、、、実にショボイと思いませんか?
そんなことをして、人生を豊かに生きる思考力が身に付くのだろうか。
(私は、子供たちは、ご近所の、親戚の、祖父母の、お○式での方が学ぶと思う。)
 
最後に残った「テストで良い点を取るために」。
これは、テストで良い点をなぜ取らなければいけないのか、と合わせて異論噴出だろう。
私は、一言だけ言いたい。
「数学で良い点を取りたいなら普通に数学の勉強をした方がよい」と。
つまり、別途「考える力」を身に付ける教育なんか必要ないと思うのだ。
 
「考える力」の教育とは、野球やサッカーをまじめに練習している生徒を部活から
引っ張り出し、「コーチや監督の言うなりに練習してもうまくなりませんよ」
「練習方法、試合の戦術、戦略については予習してきなさい」と言い放ち、
練習の場では、スポーツに興味のない生徒も入れて話し合いをさせ、最後にみんなで
ラジオ体操をさせるようなものだと思う。
ラジオ体操は重要かもしれないが、それでは野球もサッカーもうまくならない。
 
おまけに、こう言ってはなんだが、そういう練習方法を強く主張しているのは
野球やサッカーで(コーチとしても含めて)活躍した人ではなく、むしろ、
うまくいかなかった人、野球やサッカーが嫌いだった人に多いような気がしてならない。
と、言ったらうがちすぎだろうか?