塾はなくならない

教育関係者には、「塾嫌い」「受験テクニック嫌い」がけっこういるような気がする(未確認)。
好き嫌いは自由だが、ご自分の「嫌い」を正義と思い、権力のある方はその権力を行使してでも
嫌いなもの(=塾)を排除しようとするような気がする。
 
しかし、塾がなぜあるかを考えれば、ほぼ絶対塾を排除することはできないと思う。
できないことをやろうとすると、無理が出て、「本来あるべき姿」が歪められていく。
だから、ぜひ、塾の事は忘れてほしいと思う。
(ちなみに、「受験テクニック」は定義によるが、嫌っているみなさんが想像するようなものは
 たぶん、そもそも存在していないと思う。実際、あるなら、教えてほしい。)
 
たとえば、反転授業をはじめたとしよう。
「予習してもわからん」という子は多いだろう。
そういう子の親の中には塾に頼る人も出てくるはずだ。
塾は、たぶん、予習部分を教え、余裕があったら「反転授業中に発言すべき事」まで
仕込んでくれるだろう。
 
アクティブラーニングでプロジェクト型の学習(よくわからないが)になったとしよう。
それならそれで、塾はちゃんと「プロジェクトの選び方」からアドバイスしてくれると思う。
 
もちろん、我々が受けたような「詰め込み授業」に対しても塾は有効だ。
また、ちょっと前まであった「ゆとり教育」でも、塾は栄えた。
たとえば、ゆとり教育の中学では、ただ学力が高くても成績が良くなるとは限らない。
しかし、成績が良くないと高校進学に不利である。
だから、多くの塾は、ちゃんと、「ゆとり教育下での成績向上プログラム」を組んでいた。
脱ゆとりでいろいろなことが行われるようになったが、それにいち早く反応したのも塾である。
 
塾が存在するのは需要があるからで、その需要の根源は、人の社会には競争があり
「競争で我が子を少しでも有利にさせたい。お金でできるならお金を払う」という親がいることだ。
これを止めることはできないだろう。
(競争自体を止めようとする動きもあったが、学校の外に競争がある限り有害な偽善だと思う。)
授業内容をどう変えようと、塾は、その内容に合わせたことをしてくるはずなのだ。
 
昔、こんな寓話を読んだことがあるような気がする。
あるとき、ある男が自分の影を嫌いになる。
一生懸命自分の影から逃げようとするが、どうしても振り切ることができない。
だから、その男は夜にだけ、しかも薄暗いところにしかいないようになった、と。
塾は、公教育に取って、影(と言って、悪い意味ではない)のような存在だと思う。