じゃあ、どうすればよいと思うか 最終

よく「知識より思考が大事」と言う。
もちろん反論はない。
しかし、知識がなければ思考はできない。
 
たまに有名大学の大先生が「私は覚えるのは嫌いだし、無意味だと思う。
子供たちには暗記学習などやらせず、考えさせた方がいい」と言う。
 
ウソはついてないと思うが、次のような事実があるのではないかと指摘したい。
すべて推測だが、正しい自信はある(笑)。
 
・その先生はご自分の専門に関してたくさんのことを記憶しているはず。
それはたぶん「覚えよう」と思って覚えたものではないのだろう。
しかし、それでもたくさん覚えていることは事実ではないか?
そしてそういう知識がなければ大先生にはなれなかったのではないか?
ただ「知識自体」をあまり評価してないだけのことだろう。
 
・大先生が本気で「思考せよ」と言った場合、それはなまっちょろくない。
それは「全霊をこめて思考せよ」という意味だろう。
また、予定調和的に終わる議論ごっこなんか絶対に許してくれないと思う。
無駄な意見を聞いている時間がもったいないのだから。
それは、あんまりアクティブラーニングに見えないだろう。
 
・大先生が「適当な事」を言ってる可能性もある。
「昔はやんちゃで勉強してませんでした」的な武勇伝を語りたがる人は多い。
それが本当だとしても、盛り過ぎの武勇伝だとしても、普通は参考にならないと思う。
 
要するに、大先生の話は考えなくてよいと思うのだ。
そういう世界の人なんだから。
 
普通の子供たちの世界に戻ろう。
たとえば、三平方の定理をちゃんと覚えていない人がそれを使えるだろうか。
学校というところでは、ミエミエの問題が出る。
「さあ、三平方の定理ですよ。三平方の定理を使ってください」というような。
そういう問題なら、覚えていなくても、公式集を見ながら解けるだろう。
しかし、普通の人が三平方定理を使うなんて思いもよらないときに、
それを使って鮮やかに問題を解く「頭の良い人」がいる。
そういう人は、定理をちゃんと覚えているはずではないか?
定理や公式はたくさんある、その使い方はもっとたくさんあるのだから、
そのどれも覚えてないような人が上記のような活躍をするとは思えないのである。
 
なお、私は「覚えればよい」と言っているのではなく、「まず覚えておく必要がある」と
言っているのである。
知識は必要条件であって十分条件ではない。
ただ、覚える(+習熟する)のには、本気の練習とそれなりの時間がかかるのである。
だから、普通は、本気で取り組む必要があると思うのだ。
 
「思考の重要性を子供たちが見失なわないよう配慮していただく」のは必須として、
それ以外に、さらに先生に望んでよいなら、記憶学習や習熟のための練習がなるべく楽しく
なるよう取り計らっていただきたい、ということになる。
実践という意味では、こここそが、最大の難関であり、ポイントであろうと思う。
 
以上です。