存在の環

昔の辞書で「石」を引くと「小さな岩」と書いてあった。
で「岩」を引くと「大きな石」と書いてあった。
これは大変示唆に富んだ事実だと思うのだが、どういうわけか批判する人も多いらしく、
そのせいか知らないが、私が知っている今の辞書は、この辺がウヤムヤになっている。
 
言うまでもなく、世の中の大抵のことはこの石と岩のような関係になっている。
(そう思わない人は、たとえば、「直線」の定義を言ってほしい。)
ところが、大抵の場合、こういう構造は極力見せられないようになっているのではないかと思う。
先の辞書の変更がその例だ。
 
「勉強は一歩一歩進んでいくもの」とイメージする人が多いような気がする。
つまり、スタート点があって、そこからゴールに向かって進んでいくような。
それは、ある意味正しいと思う。
しかし、「スタート点」を疑ってみるべきだろうと思う。
 
そうして人は集合論の闇に、、、いえ、失礼しました。
そういう話ではなく(それと集合論は決して闇などではなく、笑)、普通の勉強の話である。
敢えて言えば、大学生レベルの話だが、高校でも中学でも転がっている勉強の話。
(実は、小学校では、これこそが最大の課題のような気がする。)
上の石と岩の例に見るように、本当は、勉強のスタート点なんかないのかもしれない。
というか、たぶん、ないと思うのだ。
 
言い方を変えよう。
たとえば、「石」をスタート点に選んでもよい。「石」が理解できれば「岩」が理解できる。
しかし、スタート点のはずの「石」が理解できなければどうしよう。
 
人はいつ、どうやって「石」を(そして「岩」を)理解するのだろうか。
よくわからないのだが、理解していることは確かだと思う。
で、三角関数とか微積分とか、f = ma とか、酸塩基とか、あるいは、世界史とか(笑)、
根底には「石」や「岩」があって、それを理解しなければならないのではないだろうか。と思う。
そして、それを理解すること自体は、あまり論理的ではないのだろうと思うのだ。