「勉強のご褒美」について 最終回

ちょっと話を整理したい。
まず、おそらく誰もが望むことは、「子供の成績を上げる」だと思う。
私はキレイゴトは言わない。
しかし、そのためには、「子供を勉強好きにする」のが有効だろうと思う。
そして、そのためには、「勉強に対してご褒美を出す」は下策だろう。
というのが、ここまでの結論だ。
 
考えてみると、「どのくらい勉強好きにすればいいの?」という「程度の問題」もある。
それは「どのくらい成績が上がればいいの?」という問題にもつながる。
しかし、ここでは論じない。「程度」はあくまで自己判断で(笑)。
 
ところで、「人間はなんらかの報酬がなければ動かない」というような話も聞く。
私は専門家ではないが、真実だと思う。
ただ、その報酬が、お小遣いや漫画やゲームでは、ダメだろうと思うのだ。
(なぜ?かというと、そういう話をしてきたつもりである。)
 
「なんらかの報酬」と言えば、たとえば、キャッチボールをする子供たちには、ちゃんと
報酬が与えられていると思う。それは、まず、「キャッチボールそのもの」だと思う。
楽しいんだから、キャッチボール自体が「ご褒美」だと思うのだ。
 
同様に、勉強をすることへの最大のご褒美は「勉強そのもの」だと思う。
人間は本来、勉強が好きなのだと思う。
好きな勉強をさせてもらえれば、それ自体が喜びであり、「ご褒美」だと思うのだ。
逆に言えば(←最近、個人的ブームな言い方?)、勉強を嫌いにする要因をできる
限りに除いてやることが重要だと思う。
が、その話は、ここではしない。
 
ご褒美の話を続けたい。
勉強に限らず人間が望む報酬の中で大変大きいのが「賞賛」とか「尊敬」ではないかと思う。
キャッチボールのうまい男の子は、好きな女の子の前でカッコ良くやろうとするかもしれない。
それでその子の賞賛や尊敬が得られれば、「キャッチボール自体」とはまた違ったご褒美になる。
 
勉強も同じだと思う。
ことに「親からの賞賛」さらに「親からの尊敬」は大きな大きな「ご褒美」ではないだろうか。
ご自身が勉強を苦手とする親御さんも、「賞賛」「尊敬」なら、与えることはできると思う。
「尊敬」を「ご褒美」というと、だましているようで嫌だからそういう言葉を普段は使わない。
(「見せ掛けの尊敬」は「尊敬」ではない。私は、本当の「尊敬」の話をしている。)
しかし、この文脈で言えば、そういうことになる。
 
「尊敬」こそが、誰にも与えることができる「ご褒美」ではないだろうか。
これが結論である。
 
ただ、ちょっと補足したい。
ご自身が勉強が嫌いな場合、「自分が嫌いなものをやっている子供」を尊敬できるだろうか。
いや、できたとしても、子供が納得するだろうか。
これは、微妙だと思う。
だから、可能なら「嫌いだ」ということは言わない方がいいと、個人的には思う。
一方、ご自身が成績が悪い場合、勉強している子供を尊敬することはできると思う。
そして、それは大いに子供を元気付けると思う。
 
それと、「勉強していることを尊敬する」と「良い成績を取ることを尊敬する」は当然違う。
(何度も繰り返しているが、「勉強」と「成績」はしっかり区別すべきだ。)
子供が良い成績を取っていればそれは「尊敬」の対象になるだろう。
しかし、「成績が悪いなら尊敬しない」というなら、それは「尊敬」ではない。
勉強をしている子供に「勉強してるんだ。偉いな〜」と言っていても、テストで点が悪い時に
「だめじゃないか」と言ってしまえば、最初の「偉いな〜」はウソとなる。
(我々は、犬の調教をしているわけではない。)
 
最初の話題に戻ると、「勉強のご褒美」にお小遣いやゲームを与えるという行為は、
「勉強自体を楽しむ」ということからも、「勉強する子供を尊敬する」ということからも、
正反対の方向を向いていると思うのである。
 
以上です。