受験の極意 2

入試の試験会場に行くと、指示書を渡される。
そこには「これこれの仕様で食器棚を作れ」と書いてある。
指示書自体が難しく、内容をやっと理解できても、その通りに作るのがまた難しい。
しかし、その指示書通りか、まあ、そこそこに食器棚が作れれば合格。
ちなみに、試験会場への材料や道具の持ち込みは、持ちうる限り自由である。
と、いうのが、今の私の入試のイメージである。
 
もちろん、これはたとえ話(アナロジー)で、食器棚とは答案のことで、
材料も道具も「知識」のことである。
 
たとえば、数学の場合。
I_n\hspace{5} = \int_{0}^{\hspace{30} \frac{\pi}{4}} tan^{2n} x dx に対し、
(1) I_n \hspace{5} + \hspace{5}I_{n+1} を求めよ。
(2) \lim_{n \rightarrow \infty} I_n \hspace{5} = \hspace{5}0 を示せよ。
(X大学)
 
解答:
(1)
\begin{array}I_n \hspace{5} + \hspace{5}I_{n+1}&\hspace{5}=\hspace{5}\int_{0}^{\hspace{30} \frac{\pi}{4}} tan^{2n} x (1 + tan^2x)dx&\hspace{10}(a)\\\vspace{10}&&\\&\hspace{5}=\hspace{5}\int_{0}^{\hspace{30} \frac{\pi}{4}} tan^{2n} x \frac{1}{cos^2x}dx&(b)\end{array}
tanx\hspace{5}=\hspace{5}t とおくと、
\begin{array}I_n \hspace{5} + \hspace{5}I_{n+1}&\hspace{5}=\hspace{5}\int_{0}^{\hspace{30} 1} t^{2n} dt\hspace{5}=\hspace{5}\frac{1}{2n + 1}&\hspace{50}(c)\end{array}
(2)
0\hspace{5}\leq\hspace{5}I_n\hspace{5}\leq\hspace{5}\frac{1}{2n + 1} だからね。
 
なんて感じである。
で、(a)は「やれ」と言われたことをやっただけである。
解答を食器棚にたとえると「板をこう配置しろ」と言われたから配置しただけ。
(a)を見ていて(b)(c)を思いつき、実行できれば終了である。
食器棚の例で言うと「あ、そうか、ここを切り取って、ここに釘を打てばいいのか」と
思いつき、実行しているようなものだろう。
この思いつきを重々しく「ひらめき」と言う人もいれば、「ただの慣れ」という人もいるだろう。
いずれにしてもできればよい。
 
できた受験生は何を持ち込んだのだろうか。
それは、以下のようなものだと思う。
・「やれと言われたことを素直に実行するとよい」という知恵。
積分の一般的知識。
・「三角関数積分tanx\hspace{5}=\hspace{5}t と置くとうまくいくことがある」という知恵。
積分を実行する技能。
 
知恵とか技能とか書いたものも、ここではまとめて「知識」とよぶ。
上に書いた「知識」を解釈すれば、たとえば、「積分の一般的知識」(積分とは何かという理解。
多項式積分三角関数積分)は食器棚にたとえると「材料」のようなもので、
三角関数積分tanx\hspace{5}=\hspace{5}t と置く」は「道具」のようなもの、
「素直に実行」は「材料の扱い方」「道具の使い方」だろうかと思う。
もちろん、「材料」と「道具」を区別することに意味はないが、要するにそんな感じかと。
 
それで、なぜ、食器棚のイメージなんかを持ち出したかと言うと、である。
たぶん、数学が得意でない生徒が上の問題を見ると、いろいろ考えるのだと思う。
いろいろ考えて思いつけば「やった!」である。
しかし、数学が得意な生徒が上の問題を見ると、これはほとんど作業でしかないのだと思う。
「ああ、これ?はいはい。じゃ、計算しますね」という感じかな、と。
もちろん、数学が得意でない人やX大に悪意があって言っているわけではない。
(X大の空○部にうらみがあるわけでもない。)
X大は文句なく難関大学であるが、X大であれ、他のどんな大学の入試問題であれ、
あるレベル以上の生徒には、「ほとんど作業」になっていると思わざるを得ないのだ。
(だって、大抵の問題で満点取れる生徒がいる。それはつまりそういうことでしょ?)
 
ものすごくできる人にとっては難問も「ほとんど作業」。
と言うのは、まあ、当たり前のようだが、逆に考えてみるべきではないだろうか。
「数学の問題を解く」ということに付随する「作業」について。
 
なぜならば、ひらめきなしに問題を解く人はいるが、作業せずに問題を解く人はいないのだから。