心正しき者、汝の名は「地理の先生」

何度も書いているように、子供の頃(と言うか、大学受験生の頃)、私は社会が苦手で、
一種のトラウマとなっていた。
それで、子供たちが小学生のときから、「悲劇を繰り返させまい」と社会の勉強をはじめた。
私の子供たちは、私の血を引いておそらく社会が苦手になるだろうから、先回りして私が
勉強しておき、つまづく前に手を差し伸べてやろうという、壮大な過保護計画だった。
 
で、6、7年かけて、ようやく私の歴史(中学の歴史)が完成した。
もう私は、立派な「歴史ウンチクおじさん」である。
場合によっては、テレビで人気の歴史の先生にすら噛み付ける。
 
のだが、子供たちはもう高校生で、私の知識はほとんど役に立たなくなっていた。
しかも、地理と公民分野はまったく手付かずのまま残っている。
子供たちは、二人とも、少なくとも、中学までは社会が苦手にはならなかった。
私の努力もいくぶんかはあると思うのだが、息子の奴など、私が公民分野をまったく
わかっていないことをあげつらい、
「公民分野を知らないって、現代民主国家の市民としてどうなの?
 地理も歴史も、一番重要な公民分野のためにあるんじゃないの?」などと言いおる。
 
まあ、よかろう。
が、「まあ、地理でも勉強してみよう」という気持ちはあったのだ。
(公民はまだ先。と言うか、政治がからむと腹が立つことが多いしなぁ。)
 
実は、地理も歴史と同じだろうと思っていた。
ところが、地理の勉強をはじめてみると微妙な違和感が。
「地理の先生」はなぜ子供たちに地理を勉強させているのか。
深く考えたことはなかったが、「彼らは、記憶することが大好きで、子供たちにも
それを強制したいだけなんだろう」くらいのぼんやした考えしかなかった。
高校では、ワインの造り方とか、地域紛争とか、入試に出るんだか出ないんだか、
なんだか妙なことばかり授業でやっていたことを思い出す。
 
が、最近、その理由がわかったような気がするのだ。
「彼らは人類と地球を愛していて、それを守るためにがんばっているのではないか」
と思い到ったのである。
 
え?私の妄想ですか?
そんな風に思うようになったのは、「山岡の地理B教室」という本を読み、息子や娘に
地理の先生の様子を聞いたことからである。
そう思って高校時代の地理の先生を思い起こすと、やっぱり、そんな感じなのだ。
(ちなみに、息子は、「地理の先生は、"それは誰のため?"と思えるほどの勉強を
 し続けているようだ」と言う。
 娘はそういう観察をしていない。)
 
ちなみに、センターの地理Bというのの過去問をやってみたら、私85点でした。
えーと、なかなかというか、かなりいいですよね?
ほぼ、カンです。
「できた」より「当たった」と言うべき正解がたくさんありました。
 
(「山岡の地理B教室」は、初心者向けの名著ではないかと思います。
 ま、他の本は読んでないんですが。
 ただ、これだけでセンター85点つーわけにはいかないとか思います。
 あとは、ほら、カンが必要です。念のため。)