「数学の問題を何度も解きなおす」について4

野球とかサッカーとか、子供たちに見せて、「さあ、あれをやってごらん」と言う。
あとはそのまま自由にやらせておく。
危険がないように見張ってる大人はいるが、その人は特に指導ができるわけではない。
 
う〜ん、なんだか一部の人たちには歓迎されそうな教育方法ですなぁ。
もし、その野球やサッカーが単なる体験、レクリエーション、体力作り、友達作りなど
ならそれもいいだろうと思う。
しかし、そうしている中から、自然に野球やサッカーのうまい子が出てくることを
期待するのはどうだろうと思う。
それは、なんだか「人間の才能」に過大な期待を寄せているような気がする。
(天才ならうまくなるのだろう。)
しかし、天才であってもなくても、もし、自分の子供に、「できる限りはうまくなって
欲しい」と思うなら、ちゃんとした指導者のいるチームに入れるべきだと思う。
 
えーと。
数学の話をしているんでしたね。
「数学の問題を与えて考えさせる」というのは、ノーミソの発育に大変よいと思う。
だから、問題を与えて自由にさせていても、子供たちがちゃんと集中しているなら、
それもよいだろうと思う。
しかし、ともすると、上記のような「単なる放し飼い状態(失礼)」になると思う。
すると、数学的才能がある子(と言うか、ぶっちゃけ、「運のいい子」だと思う)だけが
成長し、あとの子供たちは「そのまま」ということになりはしないだろうか。
 
さらに、そこに「繰り返せ」という指令が入った場合、事態はより悪化するように思うのだ。
 
「数学の問題を繰り返し解きなさい」という人は、どうしてそう言うのだろうか。
そう言われた人は、どう思うのだろうか。
たとえば、次のように思うだろうか。
 
・繰り返すことで解き方を覚える。
・繰り返すことで解くのが速くなる。
・繰り返すことで理解したかどうか確認できる。
・繰り返すことで「勉強した気」になれる。
・繰り返すことで「勉強している雰囲気」を出せる。
 
最初の2項は、まったくはずれとは言わないが、私はほとんど間違いだと思う。
(受験期には有効かもしれない。)
3番目も間違いではないだろうが、「時間の無駄」であることがほとんどだと思う。
最後の2項はギャグのようだが、実際には、よくある悲劇だと思う。
 
私は、「問題を繰り返し解く」ということが(非受験期に)有効だとしたら、それは、
 
・1度目に気づかなかったことに、2度目に気づくかもしれない。
 
からだろうと思う。
 
たとえば、ハイキングに行ったとしよう。
1度目は、ひぃひぃはぁはぁ、道に迷ったりで、あんまり楽しめなかった。
でも、2度目に行ったら、余裕ができて、道端に咲く花を楽しめた。
遠くの景色が意外にきれいなことに気がついた。
・・・なんてことはあるだろう。
 
数学の問題を2度解く最大のメリットはこれだと思う。
だから、1度目にすべてすませられるなら、2度解く必要などないのだ。