大人の勉強、または、学習投資

大人にとって、学習は投資だろうと思う。
考えやすい例としては「資格試験」がある。
「資格試験に合格し、その資格を使って良い職に就き、良い給料が得られる
ようになりたい」としよう。
そのためには、資格試験勉強(学習)をしなければならない。
当然、学校に通ったり本を読んだりしなければならず、お金と時間がかかる。
しかし、その結果がすぐに現れるわけではない。
また、勉強したからと言って、うまく行くとも限らない。
だから、投資なのだ。
 
投資である以上、成功と失敗がある。
資格勉強の結果、「合格し、そのおかげで良い職に就け、良い給料が
得られるようになった」とすれば、それがその投資のリターン(利益)であり、
投資は成功したことになるだろう。
しかし、「合格できなかった」となれば、上記の目標は達成できず、
その投資は失敗したということになるだろう。
投資であるならば、「失敗するくらいならしない方がよい」ということもある。
それは、自己責任である。
 
子供にとって、学習は人格形成の一部である。
人格形成に、リターンなど考えることはできない。
成功も失敗もないだろうと思う。
「どういう人になりたいか?そのためにはどういう勉強をするべきか」と
子供自身に考えさせることは、たまにはよいことだと思うが、それが
実際的な意味で機能するはずはない。だって子供なんだから。
(たまに考えさせるとよいのは「大人への準備」であり、言ってみれば、
 幼い子供に家事手伝いをさせるのと同じだ。
 家事手伝いをしてもらって、それが本当に役立つと期待してはいけない。
 それはあくまで教育の一環にすぎないのだから。)
まして、子供の学習に自己責任などというものはない。
子供と大人を見誤ってはいけない。
 
しかし、ここでは、大人にとっての学習を考えたい。
大人の学習は投資であり、成功・失敗があり、それは自己責任なのだ。
 
ところで、成功・失敗とはなんだろうか?
成功すれば「豊かな人生」が手に入る可能性が増え、失敗すれば
「人生が豊かでなくなる」可能性が増えるのだと思う。
(成功してもあとで不運に合うとか、失敗しても幸運でなんとかなる、
 ということはあるだろうが、それまで考えていると話が進まないので、
 以下では考えない。)
この場合の「豊かさ」は、投資者が望む「豊かさ」であり、人によっては
金銭であろうし、人によっては優越感であろうし、また、人によっては
情緒的なものだろう。
 
たとえば、簿記検定の勉強をするとしよう。
「合格して良い職に就いて良い給料をもらう」を目標にするなら、そうなって
こそ成功だろう。
しかし、本人が納得するなら、別の目標もある。
たとえば、「合格しても職業には使えない。ただ、自分の資格コレクションが
増えるとうれしい。そのために勉強する」という人もあるだろうし、
「合格しなくても、簿記の勉強で何かを身につければ、今の仕事の役に立つ。
だから勉強する」という人もいるだろう。
それぞれ目標が違う以上、成功失敗の基準も違うはずだ。
 
また、一番はじめの「資格試験に合格し、その資格を使って良い職に就き、
良い給料が得られるようになりたい」に対し、「合格したけれど、就職の役に
立たなかった」とか「合格して、良い職に就けたけど、その給料は思ったほど
良くなかった」といった場合、それは成功だったのか失敗だったのか?
たぶん、それは個人個人で判断が違うことだろうと思う。
ただ、実際問題、このような「中途半端な成功?」というのは結構多いようだ。
 
私なら、目標を多段階に分ける。
つまり、「勉強して何かが身につけば、合格しなくても取りあえず成功」
「合格すれば、就職の役に立たなくても、人に自慢できるからかなり成功」
「合格して就職の役に立てば最高の成功」などと考える。
あるいは、そういうものを選ぶのだ。
 
学習は投資であり、投資である以上、「どうなったら成功か」をあらかじめ
自己責任で考えておく必要があるのである。
当然、空前の大成功もあれば、目も当てられない大失敗もある。
また、「まあまあ成功」というものもあるわけだ。
私としては、空前の大成功を目指しながらも、大失敗は確実に回避し、不調でも、
まあまあの成功くらいは勝ち取れる投資にするべきではないか、と思うのだ。
 
お金を使う本当の投資(株式や債券)について、私は素人だが、たぶん、
そういうウマイ投資、つまり、少なくとも損はしない投資(確実に儲かる投資)
というものは、ほとんどないのだと思う。
しかし、学習という投資は、工夫して、いつもアンテナを伸ばしていれば、
たいていの場合、損はしないウマイ投資になるのではないかと思う。
  
いずれにしても、大人は、学習は何かを得るためにするのだ。
投資とリターンという視点で考えてみれば、いろいろな無駄や無理が見える
かもしれない。
今日はちょっと偉そうである。