指導者について

あ、国の指導者のことではなく、先生の話です。
いつものように、とりとめもなく、ためにもなりませんぜ。
 
先日、会社で、ちょっとした講習会があった。
とても、たるるる、いや、えーと、ためになるものだった。
ただ、久しぶりに「講義」を受ける者として、「ものを教えること」、
また「ものを教える人」(以下、指導者)について考えさせられた。
いや、決して、講習会中ヒマでしょうがなく考えていたわけではない。
 
指導者は生徒の気持ちをつかまなければならない。
我が子ならともかく他人の気持ちをつかむってのは大変ですよね。
(反抗期を迎えた我が子には別のむつかしさがあるが。)
 
ただ、やっぱり思ったのは、「教育には否定が伴う」ということだ。
「そのやり方はだめです。こうしなさい」と言わなければならないのだ。
どんなに生徒の心をつかんでいても、しくじれば、一発でおしまいだろう。
 
で、指導を受けている若者を見ていた。
最近の若者は、個性主義というか、「ありのままの君でいいんだよ」的な
教育を受けてきているだろう(推測、未確認)から、否定されるのは嫌いだろう、
と思いながら見ていた。
が、特に目立った表情の変化はなかった。
まあ、今の若者は、「大声で異を唱える」ということも少ないので、「表情が
無変化」というのは、解釈が難しい。
しかし、それ程、嫌がっているようでもなかった。
これは指導者の人徳なのか、それとも、若者諸君はそれ程弱くはないのか。
 
相手を否定するときのやり方で、「10回肯定して、1回否定」などというのがある。
回数にはバリエーションがあり、肯定が先か否定が先かでもウンチクがあった。
が、まあ、要するに、そうすることで、否定を飲み込みやすくさせるということだ。
私は、講習で指導者の話を聞きながら、そんなことを思い出していたのだ。
確かに、それは有効そうな一案だが、ずっとやっていると、効率が悪いとも思う。
と言って、有効な代替案があるわけではない。
 
何度も書いているが、生徒が最大限に効率よくものごとを吸収するには、指導者を
尊敬していることが大事だと思う。
尊敬できない人の話なんか、たいして覚えていられないものだから。
しかし、(今の時代に限らないと思うのだが)指導者を尊敬していない生徒は多い。
どうしたものだろうか。
 
多くの人は「すぐれた指導者は自然に尊敬される」と考えるのではないかと思う。
実際そうだろう。
でも、指導者の立場に立つなら、「俺の話を聞け。それが君らのためなんだ」と
思うだろうし、それを効率よく実行する基盤が「尊敬」なら、「おい君たち。
俺を尊敬しなさい」と思うのではないだろうか。
(ここでのポイントは、「思う」であって「言う」ではない。今のところ。)
 
私もときどき指導者になるのだが、実際、上のように考えている。
もちろん、「教える人が偉いわけじゃない。だから、俺を尊敬する必要はない。
ただ、俺は君らよりものを知っている。それを伝えているんだから、聞いてくれ」と
言う方法もあるだろう。
なんだか昔のドラマの先生が言いそうなセリフじゃありませんか?
でも、これはたぶんダメだと思うのだ。
尊敬できない指導者の言葉は心に入ってこないから。
 
もちろん、逆説的に、上のように言うことで、生徒に「この人はバカな偉ぶってる
大人じゃない。(だから、尊敬できる)」という思いを起こさせることもできる
かもしれない。
ねらってやっているわけでなく、自然にそうなるなら、それはその人の人徳だ。
ねらってやってるなら、「お主も役者やのぉ」と言ってあげたい。
もちろん、生徒のためにそうしているのなら、良いことだ。
 
が、そういう人徳も演技力もない指導者はどうすればいいのだろうか?
私は、「俺を尊敬しろ」と言っていいんだと思う。
(あのサッカー漫画の桜庭君の話ではない。)
それこそが、本当に生徒のためだと思う。
 
ただし、それはなかなか強いハートが必要だろう。
また、うまく言わなければ、逆効果になることも間違いない。
 
で、思ったのは、「私にはちゃんと挨拶をしてください」と言うことだ。
ちゃんと挨拶させ、それを返すことが、一番いい「俺を尊敬しろ」ではないだろうか。
 
そんなことを考えていたら、講習会が終わったのである。