「坊ちゃん」

娘は、塾の夏期講習と習い事で忙しく、お父さん塾は休止状態。
でも、お父さんは、最近、読書指導に燃えている。
 
お父さん塾「国語」を、問題集+読書に変更してから、娘とは
  誰も知らない「名画の見方」 高階秀爾
を(1章だけ抜いて)読みきった。ものすごくよかったと思う。
予定では、これからちょっと問題集と思ったのだが、娘は「物語」を読むことを主張。
「(解説文を読んだら次は物語を読むと)約束だったじゃん」と。
 
そこで甘いお父さんは、問題集は横に押しやって、
  「坊ちゃん」 夏目漱石
を一緒に読み始めてしまった。
 
この本、確か、私は小学校5年生のときに読んだのだった。
その頃、わけあって我が一家はあるところに寄宿していた。
ある日、道をぶらぶら歩いていると、そこの宿主さんに出会った。
そこがちょうど本屋さんの前だったのだが、宿主さんは、「本を買ってやろう」と。
子供心にも、それはわるいと思ったのだが、結局、買ってもらったのが、
立派な装丁の「坊ちゃん」だった。
 
今読んでみると、よく小学校5年生で読めたな、と思う。
しかし、その頃、結構な数の小学生が漱石を読んでいたと思う。
友達には、「我輩は猫である」を勧められたし。
(しかし、物語の最後を聞いて、読むのをためらった。
 その後、内田百ケンが続編を書いていて、そこでは猫が助かっていると聞いてほっとした。
 それなら続編ともども読んでみたいと思いつつ、何もせずに、はじめから数えると、
 かれこれ40年の歳月が。)
 
今読んでみると、「坊ちゃん」は、文体でちょっと不思議なところがある。
たとえば、「清は聞いた」(原文通りではない)のような表現がある。
「誰に聞いたんだろう」と思う。「おれ」(坊ちゃん)にである。
そういう場合、普通は、「清は俺に聞いた」とか「清は聞いてきた」のように書くのでは
ないかと思うのだ。
明治の人の書き方なんだろうか?夏目漱石の書き方なんだろうか?
それとも私の勘違い?
なんて、思ったが、大変いきおいのいい文章で、楽しく読める。
 
それと、「坊ちゃん」では、「思ったこと」や「言ったこと」に、カッコがつけられず、
地の文と混ざっていることが多い。
実は、私のブログはそのスタイルである。
(いや、明治の文豪と自分を並べているのではないので、ご安心を。)
しかし、それは、遊びで書いているからだ。
(ついでに言うと、ときどき、「である」と「です」を混ぜるのもわざとである。
 決して、文章のイロハを知らないわけではないのであるっ。)
仕事で文章を書くときは、そんなことはしない。というか、怖くてできない。
「文豪はすごいな」と思うわけだが、それより、実は今の自分の文章って、「坊ちゃん」の
影響もあるんだろうかと、なんだかうれしいのである。
(いや、だから、明治の文豪と自分を並べているのではないので、ご安心を。)
 
自分の話ばかり書いたが、娘はきっと喜んでくれていると思う。
そして、将来に良い影響をもたらすと信じたい。
 
後記:
「わたし、坊ちゃん好き。おもしろい」と。
お父さん、泣きそうです。
坊ちゃんの感想文は後ほど。