私の数学雑感2

数学書(特に現代数学概説1)が急に読めるようになった理由。
もちろん、勘違いということもあるだろうが、考えたことを書いておきたい。
それは、主に、気持ちの変化による。
かなり不遜な内容になるが、自分の記録のため。
 
代数学概説1の第1章は集合についてである。
30年前、私は、ここで挫折した。
私には、なんだか、ものすごく難しく高級な話に思えたのだ。
 
しかし、よく読んでみると、確かに高級なのだろうが、そんなに難しい
ことは書いてないように見える。(順序数のところは知らない)
「集合と対応」をいろいろにこねくりまわしているが、逆に言えば、全部
それで、考えてみれば、「当たり前のこと」ばかりである。
数学とは、当たり前の積み重ねなのだから、「当たり前」でいいのでは
ないだろうか。
 
(武道修行者の中には、「何十年やってやっと入門」という考え方が
 好きな人がいる。学問の世界も同様で、「ちょっとかじったくらいで
 わかった気になるな」という人が多い。
 確かにそうではあるだろうが、極端なのもどうかと思う。
 なお、実を言えば、「無限」が入ってくるので、そういう意味では、
 必ずしも「当たり前」ではない。が、まあ、それはそれ。)
 
代数学概説1は、すばらしい本である。
第1章は、小学校の算数で言えば「四則演算」、中学校の数学で言えば
「正負の数」のようなもので、大学で数学を学ぶために理解しなければ
ならない基礎を、丁寧に説明してくれているのだと思うのだ。
で、その基礎とは、「集合や対応をどんな風に扱うか」という「お作法」
だと思う。
 
こう思えるようになったのが、「読めるようになった理由」の1である。
もう1つの理由も、心境の変化による。
 
数学の定理は往々にして、「○○な性質をもつものが存在する」という
結論になっている。
これが、かっこいい。素人のあこがれである。ま、それは、いいですよね。
 
ところで、その証明では、往々にして、「その○○な性質をもつもの」を
具体的に構成したりしている。(もちろん、いつもではないが。)
ただ、その前後に、「そのようなものが存在すれば、別の構成法で作られ
たものも、本質的に同等である(業界用語で、「同型」など)」と示される。
ので、その具体的な何かの価値はぐっと下がってしまう。か、に思えた。
私には。
 
しかし、最近、心を入れかえた。
具体的に構成されたものは、結局、(おそらく)無数にある同等な
ものの1つに過ぎないのだろうけれど、とにかく、具体的なものなのだ。
手でさわることだってできる。(いや、イメージです。)
だから、それに寄って考えてみようと思うようになったのだ。
 
で、関連する新しい定理が出ると、可能なら、自分でも、そのような
「何か」が構成できないか考えるようになったのだ。
もちろん、そんなことが、すぐさま簡単にできるわけではない。
(できちゃったら、プロの数学者になれますよね?)
しかし、そういう方向で考えると、証明も楽に読めるのだ。
「あ、私が考えたのと同じ方向だ」と思えて、うれしいこともある。
もちろん、たま〜にだが。
 
要するに、心境の変化とは、
 
 ・証明中の構成物を忘れないようにした
 ・それを自分の思考に利用しようとした
 
ということだけなのだ。