教えるのか教えないのか

最近、本屋さんで、「子供に勉強を教えてはいけない。自分で勉強させよ」という
意味のことが書いてある本を見た。
 
その本は、買ってない(買おうか迷ってちらっと見た)ので定かではない。
が、その本の内容とは関係なく(だって読んでいないのだから)、考えてみたい。
子供には、勉強を教えるべきか、どうか。
 
と言うか、私は、ずっと教えてきたので、「子供に勉強を教えるべきではない」と
言われても困る。もう、手遅れですぜ。
 
ただ、「教えるべきではない」という主張、わからなくもない。
それは、「教えすぎると、子供の自立心が育ちにくい」ということだろうと思う。
この点、私も、悩まなかったわけではない。
(なお、「まったく教えない」というのは、不可能かと思う。)
 
が、結局、私は、「教える」という選択をした。
それは、ひとつには、私が楽しかったからだ。
子供のためなのに、自分が楽しいのは不謹慎だろうか。
 
自分だけが楽しかったらまずいだろう。
ただ、自分も楽しく、子供も楽しかったら、それでよいと思う。
私は、子供と、勉強で遊んでいたのだ。
「自立心」は、もっと先の話ではないだろうか。
 
実際、子供たちが小さい頃は、本当に楽しく、一緒に勉強することができた。
それを子供たちがどう思っているか、はっきり言葉で聞くことはできないが、
まあ、それなりによかったと思ってくれているのではないだろうか。
 
ただし、少し大きくなってからは、だんだん、私の干渉を嫌がるようになった。
それでも、なんだかんだで、一緒に勉強させたのはどうだっただろうか。
(娘に関しては、現在進行中でもある。)
これは、評価が難しい。
でも、やっぱり、悪くはなかったと思う。
まあ、「干渉を嫌う」ということ自体、自立心の表れだろうし。
 
「私との勉強」を息子が嫌がったのは、「受験のために」という時だった。
最近書いたように、今、息子は塾で勉強している。
塾がこんなにすごいとわかっていれば、私が「受験のために」なんて言う必要は
なかったのだが、まあ、それはそれだろう。
中3(厳密には中2の終わり)から受験塾に入って、それなりにやっていける
(もっと前から塾に入っていた子供とやっていける)のは、「私との勉強」に
受験勉強的側面があったからだとも思う。
 
では、娘との勉強は、どうだろうか。
受験勉強的側面がないかというと、大有りだ。
ひとつには、娘は、息子の通っている受験塾ではなく、学習塾(学校の授業に
あわせた授業の塾)に行きたがっていて、受験塾に行くことになるかどうか、
不明だからだ。
それに、まあ、やっぱり、教えたくなるのだ。受験的な勉強も。
 
こう書いてみると、単なる自己肯定かもしれない。
最終的には、子供たちが、判断してくれるだろう。
 
一応、書いておくと、私が目指すものは、「補助輪」である。
私は、子供たちの補助輪になりたいのだ。
いずれ補助輪は不要になるだろうし、なってもらわなくては困る。