ゆとり教育と競争 最終回

具体的に、私が言いたいことは、
 
 子供たちに勉強における切磋琢磨をさせるべき
 
ということである。
もちろん、勉強以外のこともあるのだが、まあ、一番重要に思えるのは勉強だ。
 
「切磋琢磨」というちょっと良い感じの言葉を使ったが、それは、つまり「競争」だ。
さらに言うと、「勉強における競争」とは「テストの点取り競争」を含む。
決してそれだけではないが、大きな部分であることは間違いない。
 
こう書くと、なんとも、非人間的な、また、うすっぺらな感じがするのは否めない。
しかし、これが、私が言いたいことなのだ。
 
学校の目的の第一は、「学力をつけること」ではないだろうか。
そして、どんなことでも、実力をつけるには、切磋琢磨(競争)が手っ取り早い。
中には、誰とも競争せず、ひとり静かに勉強を続け、ついには、世界的な大発見を
してしまう人もいる。らしい。
そこまでいかなくても、それなりの学力を持つことはできるかもしれない。
が、それは例外だ。
すべての子供に、「そういう人になれ」というのは、無責、、、いや、失礼。
とにかく、普通は、何かの実力をつけるのに競争は有用であり、逆に、
競争しなければ、とても難しいと思う。
人間はそのようにできているのだと思う。
(みんな知っていることだと思うのだが。)
 
また、学力がついたかどうかは、テストをして調べるのが手っ取り早い。
だとすれば、テストの点数を競い合うのも、決して悪いことではないだろう。
それは、学校生活の一側面ということになると思う。
 
そう言うと、次のような「反論」があるかもしれない。
 
 ・学力がすべてではない。
 ・点数と人格は比例しない。
 ・テストで計れない学力もある。
 ・結果のみでなく、努力も評価すべきである。
 ・テストの点数が悪い子のケアが必要である。
 
これらは、すべてまったくその通りである。
そして、私の主張となんら矛盾するものではない。
勉強における切磋琢磨も、「やり方」(好ましいもの、やってはいけないもの)が
あるだろうし、「テストがすべて」と言っているのでもない。
 
たとえば、いつも一緒に遊んでいる友達がテストで突然良い点を取ったとしよう。
それを「へえ、すごいね」で終わらせてしまう。
あるいは、心の底からそれを祝福してあげる。
あるいは、「あいつは勉強できるから」と屈託無く言って笑う。
そして、それは自分とは何の関係もないことだと思う。そして、忘れてしまう。
 
もし、そんな子供がいたとして、それでよいのだろうか。
もちろん、「わざわざ競争心をあおれ」と言っている訳ではない。
しかし、子供が、そんなにも老成していていいのだろうか。
私には、ゆとり教育が目指しているのは、そのような子供にみえる。
 
しかし、こう言ってはなんだが、実際に上のような事が、自分の子供に起こったら、
大抵の親御さんは、心穏やかではいられないと思う。
子供を叱りまくったり、先生に文句を言ったり。どれも無益な行いなのに。
 
ところで、本当に、いつも一緒に遊んでいる友達がテストで突然良い点を取ったら。
表面上はともかく、何も感じない、何も考えない子供はいないと思う。
たとえば、「次は勝つ」というストレートなものもあるだろうが、
「あいつ、いつ勉強したんだろう」「次は俺も(私も)がんばろう、、、かな?」
「勉強嫌だな」「おかあさん怒るかな」「別の科目で勝つ」「腕力でなら勝てる」
「自分の方がもてる/かわいい」なんてのもあるだろう。
その感じた何か、考えた何かを大事にしてあげるべきではないだろうか。
(親が感想を言うのもオッケーではないか?
 ただ、「次は勝て」のように、無理強いするのはよくないと思う。)
 
「そのときの気持ちをずっと持続しろ」というのもひどい残酷な話だと思う。
ただ、簡単に忘れさせちゃうのももったいない話だと思うのだ。
その子の人生にとって。
 
最近はあまり聞かなくなったが、「子供時代にケンカをしたことのない人が
案外大人になって非道なことをする」ということが言われた時期があった。
実証できることとも思えないが、私は、そういう傾向はあると思う。
そして、それは、ケンカにかぎったことではないと思うのだ。
 
いつもキョロキョロしながら、他人を気にして生きていくなんてバカバカしくも
つらい生き方だが、「他人などまったく気にしない、悠然とわが道を行く」なんて
生き方は、天才ならともかく、普通は、功なり名をとげたおじいさん・おばあさん
の生き方だろう。
他人と関わり合いながら、競争したり、協力したり、遊んだりして生きていくのが、
子供ではないだろうか。