国語の先取り学習・先行体験7(未完の最終回)

実質的な最終回は前回。
今回は、「国語の先取り学習・先行体験」なんて書いておいて、実際には、
先取り学習・先行体験の話にならなかったことについての言い訳。
しかも、まったくまとまっていない。
 
なんでこんな題名にしたかというと、もともと、「生活内体験」と「読書内体験」
の関係を考えたかったからだ。
ここで言う「生活内体験」とは、「自分が実際の生活でする体験」という意味である。
これは、普通に「体験」と言うべきものだが、「読書内体験」と区別するために
そうよんでいる。
その「読書内体験」とは、「小説の中での見聞(疑似体験)」という意味である。
 
小説などをよく理解するためには、その内容に近い「生活内体験」を持つ必要は
あるだろうか?
私は、関連する「生活内体験」がまったくなければ、やはり、まったく理解できない
のではないかと思う。
たとえば、火星人が居たとして、その火星人がネリリしたとかキリリしたとかいう本が
あっても、日本人がそれを理解することはできないに違いない。
(ネリリ・キリリの元ネタは、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」です。)
「それじゃあ、小説を理解するために、生活内体験を積もう。それこそが国語の
先行体験だ」と言うべきか。しかし、それでは、なんだか本末転倒ではないだろうか。
また、「そもそも、なんのために、小説を理解しなければならないのか」という問題
にも突き当たるのではないだろうか。
 
逆に、小説を読むことで、「人間のいろいろな感情の動きがわかるようになる」という
人もいる。昔の国語の先生は、たいていそんなことを言っていた(ような気がする)。
(余談だが、妻も、この意見に賛成のようだ。)
これは、「小説内体験が生活内体験の先行体験になる」ということだろうと思う。
この考え方も、なるほどと思うのだが、はじめに書いたように、読者の側にまったく
「生活内体験」がないと、小説の深い理解には到らず、したがって、先行体験にも
ならないだろうと思うのだ。
また、「小説なんか読まずに、家の外に出て、何でもいいから体験してこい。
そっちの方がホンモノだ」なんていう体育会系の言葉(?)にも惹かれるものがある。
 
つまり、こういうことだ。
小説を理解し、よりよい「読書内体験」をするには、ある程度の「生活内体験」が必要。
一方、人の心を深く理解し、よりよい「生活内体験」をするには、「読書内体験」が有用。
「必要」と「有用」は若干異なるが、「生活内体験」と「読書内体験」は、どこか、
「ニワトリが先かタマゴが先か」に似た様相を呈するのだ。
 
こんなことを「国語の勉強」という視点で考えていて、何か思いついた(あるいは、
思いつきそうだと思った)ような気がしたから、このエントリーをはじめたのだが、
結局、まとまった結論には到らなかった。(ごめんなさい。)
もちろん、これからも考え続けたいが、今回は、ここまでとしたい。
 
以上です。