怖いおじさんと優しいおじさん

何度も書いたけど、また。
 
私は子供の頃、2回ほど車に引かれそうになった。
最初のときは、フラッと車道に飛び出してしまったのだ。
そのとき、車がキキィーッと、それこそこの世のものとも思えないブレーキ音を立てて目の前に止まって、
運転していたおじさんが鬼のような形相で「てめぇ、死にてぇのかあ!」と叫んだのだった。
私は、車に引かれそうになったということではなく、おじさんの大声と形相が怖くて怖くてたまらなかった。
小学校低学年くらいでのことだ。
 
それから、しばらく考えて、「やっぱりあのおじさんはおかしい」という結論に達した。
自分は素早いから車の前に飛び出しても引かれるはずがない。サッと避けられる。
それなのに、あんな大声を出して叱りつけることはないだろう、と。
 
それで、今度は、それを証明するために、意図的に車の前に飛び出した。(もちろん、違う車のはずだ。)
するとやっぱり、車は大きなブレーキ音を立てて止まり、中のおじさんがものすごい形相で怒鳴ってきた。
本当に怖かった。車ではなく、そのおじさんが。
そこで、私の心は折れた。
もう車の前に飛び出すのはやめよう。だって、中には怖いおじさんが乗っているから、と。
 
というわけで、車の前に飛び出すのはやめたが、相当長いこと、たぶん小学校高学年くらいまで、
私はあの二人のおじさんを憎み続けた。思い出しては、腹を立てていた。
しかし、もっと大きくなると、さすがに事態が飲み込めた。
あのとき、おじさんたちがブレーキを踏むタイミングが遅れたら、私は生きていなかったかもしれない。
さらに、おもしろいことに、私はあのおじさんたちを恐れるあまり、その後は飛び出さなかったのだ。
つまり、あのおじさんたちは、その意味でも私の命の恩人なのだ、と気が付いたのだ。
それから、私はあのおじさんたちを深く尊敬するようになり、「ああいう大人になりたい」と
まで思うようになったのだった。
 
実際、おじさんとよばれる年代になると、危険なことをしている子供は、理屈抜きに怒鳴りつけるようにした。
「それはコレコレこういう事情で危ないからやめなさい」などとは言わず「てめぇ、死にてぇのか」と。
彼らの恨みのこもった目と私の目が合うこともあったが、私は、自分がいいことをしたと確信している。ほんとに。
「おじさんたち、見ていてくれましたか?僕は、ちゃんと恩(人類に対する恩)を返していますよ」的な。 
 
ところで、子供がそこそこ大きくなってから、通勤の駅で危険なことをしている青年を見るようになった。
その青年は、いわゆる発達障害というのだろうか、ニコニコしながら、たぶん、危険性を理解せずに、
とても危険なことをしていたのだ。
私は、説明もしなかったが怒鳴りもせず、危険から引っ張り出すようにして、そのまま行ってしまった。
あれで良かったのかな、と思いながら。
正直、どうすればよいのか、全然わからなかったのだ。
 
ところが、その次の朝も、その次の朝も、彼は駅に現れ同じことをするのだ。
私は、近くにいるときは、最初に見た日と同じことをしたが、タイミングによっては何もできなかった。
(何しろ、朝のホームだから。)
しかし、やっぱり、「これは怒鳴ってやった方がいいのだろうか」と思うようになった。
しかし、どうにも確信が持てなかったので、妻にも言ってみた。
すると、妻はやめた方がいいという。
その青年は、怒鳴られてしまうと、外出そのものをしなくなるかもしれない。
すると、その青年に与えられた(たぶん、家族や関係者が大変な思いをして作り出した)チャンスを
奪うことになる、と。
「だから、やさしく引っ張ってあげた方いい」と言うのだ。
 
「そういう考え方もあるのか」と感心した。
が、それにしても、毎日のことであり、どうしたものかと思ったのだ。
そして、「子どものために怒鳴る」という行為は崇高な行動だと今でも思っているが、
それは「1回で済まそう」という省エネな気持ちが入っていることも否定できないことに気が付いたのだ。
 
と、ある日、駅員さんが現れた。考えてみると当然というか、やはり誰かが通報したのだろう。
その駅員おじさんは、笑顔で「危ないよ」と言いながら、その青年を引っ張り出すのだった。
「おお。この人は笑顔派か」と感心しながら見ていたのだが、一方で、「これ毎日やるのかな」とも思った。
「通報されたから出てきた。で、一日だけ笑顔で処理をして、明日は出てこない」という可能性も考えた。
 
しかし、その駅員さんは、それからしばらく毎日出てきて、笑顔でその青年を抑えていた。
そして、いつしか、気が付いたら、その青年はそこにいなくなっていた。
それは、危険行為をしなくなったから目立たなくなったのか、やっぱり怒られて外出ができなくなったのか、
私にはわからないが、うまくいったことを願うばかりである。
 
総括するに、怖いおじさんも優しいおじさんも、両方が必要だと思う。という話である。