「AIに取って変わられないために」という議論

教育関係者に「AIに取って変わられないために」という人が多い。
私が知る限り、そういう人は、全員AIを理解していない気がする。
鉄腕アトムの時代のコンピュータのイメージで語っているというか。
 
そもそも、AIの進化で、これから我々がどうなっていくのか、知っている人はたぶんいないと思う。
あるいは、いたとしても、それが誰なのか、普通の人にはわからない。
アメリカやイギリスの偉い大学の先生は確かに、権威だろうけれど、彼らが正解とも限らない。
(個人的には、大学教授や企業経営者こそ、AIに職を奪われる最有力候補ではないかと思う。)
 
少し前に、テレビで、キュウリの選別の機械化の話をやっていた。
AI(かな?)が、たくさんのキュウリの重さを測定し、適当な組み合わせで袋詰めしていく工程を
紹介していた。
そして、ほとんどが機械任せになっていたのだが、ただひとつだけ(テレビでは)人間の仕事があった。
それは、キュウリを機械に放り込む係である。それだけは、人間が手で行っていた。
さしあたって、あの人たちは職を奪われていなかったのだ。
そんな未来を誰が想像しただろうか。
 
じゃあ、おまえはどうすればいいと思うんだ。と言われるかもしれないので書いておこう。
 
まず、職を奪われない方法は(上にも書いたように)知らない。知らないものは知らない。
職はともかく、幸せでいられる可能性が最も高い方法は、「生物として備わった機能を大事にする」だと思う。
 
 足があるなら歩こう。
 手があるなら何か作ろう。
 脳があるなら考えよう。
 以下同様。
 
である。
自動車や電車に負けても人が走ることに意味はある。
コンピュータに負けても人が考えることに意味はある。と思う。
と言うか、それを否定してしまったら、楽しく生きていけない。
 
ところで、生物として備わった機能を育てるのが教育だと思う。
たとえば、「自動車が速く走るんだから、人間が走る必要はない」と言って体育を否定するのはおかしい。
それなら、「コンピュータが速く計算できるんだから、人間が計算力を鍛える必用はない」とか、
「ネットに情報があるんだから、人間が知識を覚える必用はない」というのも同様におかしいと思う。
かつて、学校は学問の府だったが、いつの間にか、職業訓練所になった。
これからは、生物としての生を楽しく全うするための準備の場所にすべきではないだろうか。