新しい時代の新しい教育とは? 4

えーと、何の話をしているんだっけ、というと、そうそう新しい時代の新しい教育。
私の結論は、「別に新しい教育なんて特にないでしょ?」だが、まあ、そういうのもナンだろうと、
考え始めたのだが、やっぱりそうとしか思えない。
 
あえて言えば、個人的に、これから過去以上に必要になると思うのは、
 
・思考力
・コミニュケーション力
 
の2つだろうか。
ただし、コミニュケーション力とは、異文化の人たちとやっていく能力のことであって、
以心伝心とか、飲ミニケーションとか、ヨイショとか、権力者の気持ちの忖度とか、そういう日本古来の
コミニュケーションの話ではない。
ただ、コミニュケーション力は重要だが、そもそも思考力がなければだめだろうと思う。
思考力があれば、たぶん、なんとかなる。
つまり、一番大事なのは思考力だろうと思う。
(それは、いつの時代でもそうだろうと思うが、労働の形態を考えるとより重要になっていると思う。)
 
それで、どうすれば思考力がつくか、ということだ。
仲間とワイワイ話し合っていると思考力がつくだろうか。
そんなはずないじゃん。
いや、幼児期はそうだと思う。
「幼児期の会話」はものすごく大事な気がする。
小学校もそうだろう。
しかし、小学校高学年か、中学校からか、「独りできちんと考える」ということを覚えなければいけない。
その際、友達との会話は、雑音にすらなりうる。
きちんと自分で考えられるようになってこそ、友人との議論も意味が出てくると思うが、
それは、「そこまでになった人」にのみ通用することだと思う。だって、、、そうでしょ?
 
思うに、思考というのは、実に孤独な作業だ。
その作業が正しいかどうか、実のところ、誰にもわからないのだろうし。
数学が好きな人がじっと数学を考えているとき、普通、寡黙になる。
話しかけても返事をしなかったり、嫌がられたり。
たぶん、彼らは好きでやっているので、孤独感はないのかもしれない。
しかし、好き嫌いはともかく、孤独な(に見える)作業ができない人は、たぶん思考に向いていないと思う。
自分の子供を「思考できない人」に育てたい人はあまりいないだろう。
 
と、書くと反論がありそうだから、書いておくと、人と話しながら思考できる人とか、
人との会話の中でこそ名案を思い付く人とか、もちろんいると思う。
あなたがそういうタイプの人なら止めない。
しかし、大部分の人には、「一人で考える時間」が必要なのだ。
どのくらい必要かというか、たくさんなのだ。
普通は、たくさん、たくさん、たくさん考えなければいけないのだ。
 
続く。
 
注:
考えると言っても、たとえば、「責任の所在をあいまいにする方法を考える」もある。
それだけで、たくさんの人の人生を変え、数百億円(〜数兆円)規模の損害を出しても
おとがめなしになるのだから、当人たちには、考えるに値する重要なことなのだろう。
そういう「考える」は、独りで考える習慣とはあまり関係がないのかもしれない。
そんなとき、人は、自分の味方とより集まって、何時間でも話し合いをするような気もする。
そういう思考力のことは知らない。したことがないので。