教育論の多くは妄想である(ような気がする)

私も含めて多くの人が教育について語りたがる。
ここで言っているのは、あくまで、国語算数理科社会的な教育についてである。
 
たとえば、次のように考える(考えたことがある)人は結構いると思う。
「1日に英単語を10個覚えることは不可能じゃない。それを1年続ければ3650個覚えられる」。
本当にそうだろうか。
もしかしたら、実行できている人もいるのだろう。
しかし、私は、中学生くらいから、しばしばこのような発想で勉強をはじめ、3日くらいで
挫折している。(「見事なまでの3日坊主」と親によく言われた。)
それなのに、また、何かの機会があると同じようなことをしてしまう。
「同じような」とは、英単語に限らないという意味だ。
たとえば、「この本を1日1ページずつ読むと半年で読み終わる」とかだ。
その際、「どんなに眠くても絶対1ページ読む」みたいな決意を込めたりして、それでやっぱり
3日くらいでやめてしまうのだ。
 
こういったことを繰り返す人を、私はほほえましいと思う。(だって、自分がそうだから。)
しかし、この自分ではうまくいかなかった理論を他人に押し付ける人がいたら恐ろしいと思う。
たとえば、親御さんが、「いいか。今日から毎日英単語を10ずつ覚えるんだ。いいな」と
子供に言い、3650個覚えられなかったら「おまえはダメな人間だな」と言ったりしたら。
(ご自分でこの方法を実行し、成功した人を除く。)
 
もちろん、そこまでひどい親は(あまり)いないと思う。
続けられなかったら、「そうか。しかたがないな」とやさしく笑うだけかもしれない。
しかし、それでも、子供は傷つくかもしれない。
傷つかなくても、「自分はダメ」と思い込んでしまうかもしれない。
そんな深刻にとらえない子供は、逆に、「親の言うことなんか聞かなくていいんだ」と
思うようになるかもしれない。
「少なくとも、親に用意された単語帳とちょっとやってみた時間が無駄だった」という
ことになり、やっぱり不利益をこうむったことになるかもしれない。
 
いやいやいや。
「英単語を毎日10個ずつ」なんて言う人はいない?
たぶん、あまりいないと思う。
しかし、英単語はわかりやすい例として出しただけである。
 
私は、どういうわけか、他人の教育論を聞く機会がある。
たとえば、「ドリルをやらせて計算力を上げたい」とか「ドリルは減らして考える時間を
増やしたい」とか「もっと読書をさせたい」とか「本ばかり読ませないで外に行かせたい」とか。
 
えーと。
それらについて議論したわけではない。(だって、嫌じゃん?)
私はただ聞いているだけである。
「だから、本当のことはわからない」ということは確認しておきたい。
その上での推測なのだが、それらの多くは、「実際に実行して成功した教育方法」ではなく、
「やりたい」と思っていることだったり、「やりたくてもできなかった教育」である。
もっと言うと、「自分がやろうとしてできなかったこと」だったりする。と感じる。
 
どうせやらせないなら、まあ、問題ないのかもしれない。
あるいは、ただ希望を述べただけなら、むしろ、推奨したい。(何様?笑)
が、話によっては、「これからやらせる」という勢いのものもある。
あるいは実際にやらせなくても、いつも心に思っているなら、影響はあるだろう。
しかし、「自分がやろうとしてできなかったこと」などは、妄想ではないのだろうか。
 
他人を批判する意味ではなく、自戒を込めて。