思い出話、のような、今の話ような

私は、学生時代、何度もいろいろな数学の本を読みかけて挫折している。
(子供たちには内緒だ。あ、妻にも。)
 
まあ、私の能力(脳力)のことは置いておいて、そのひとつの理由は、自分の
習性にもあると思う。
数学の本には、たいてい、その本の基礎になることが始め(か終わり)に
まとめられている。それは、あくまでまとめであって、「詳しくは、たとえば、
これこれの参考書を読むように」と指定してあったりする。
それは、「これはわかっていなければいけない」という確認の場合もある。
が、大胆に言おう、それは、実のところ、
「この部分にあることは、証明なしに使うよ。気になったら、参考書を読んでね。
 でも、この部分さえ読んどけば、この本は読めるから、あんまり気にしなくて
 もいいよ」
というものだと思う。
少なくとも、数学の専門家になるのでなければ、そこさえ読めば、あとは気に
しなくてよい、と思う。
 
しかし、私は気にしてしまうのであった。
気になっても、それはあと回しにして、まず、その本を読むべきだと思う。
理性では、そう思う。
が、気になって気になって、その本を読む前に、参考書を買ってしまうのだ。
(私は貧乏だが、本以外にお金を使うことがなかった。
 彼女もいなかったし。妻となる人に出会うまでは。)
で、参考書を読もうとすると、また、始め(か終わりに)に、その本が基礎とする
ことがまとめられていて、参考書が指定してある・・・。
これは、無限ループではなく、有限回の手続きで終了するのだが、有限の時間
しか持たない私は、本だけ買い集めて、結局、読みきれなかったのだ。
う〜ん。書いていて思うのだが、愚かだと思う。いろいろな意味で。
何十年も前の代数の本が私の家にたくさんあるのは、ひとつには、そういうわけだ。
 
この手続き(参考書の遡り)は、実は、どんどん進めていくと、大抵、集合論
さらには、数学基礎論というものにまで行ってしまうらしい。
数学基礎論とはどういうものかまったく知らないのだが、昔、数学基礎論者が
自己紹介するのを聞いてなるほどと思ったことがある。彼は、次のように言った。
「数学界における私たち数学基礎論者は、世の中における数学者のようなものです。
 普通の世の中の人は、数学者は、どうでもいいような細かいことをいちいち気に
 するウルサイやつらだと思っているでしょう。
 私たち数学基礎論者は、一般の数学者の間ではそのように思われています」
これを聞いたとき、「ほほう。数学者どもは、自分たちが、どうでもいいような
細かいことをいちいち気にしていて嫌われているという自覚は、ありやがるんだな」
と思ったものだ。
そして、さすがに、そこまで行ってしまうことには、躊躇したものだった。
(上記表現中に一部不穏当なものが含まれますが、制作された当時のまま配信しています。笑)
 
まあ、なんにしても、いかに頭の悪い私でも、いい加減、参考書の遡りはやめた方がよい、
とはわかった。
子供たちの影響もあり、数十年のときを経て数学の勉強を再開した私は、過去の愚を
繰り返さず、ここまでうまくやってきたと思う。
特に、集合論は、啓蒙書程度でおさめて、先に行こうと。
(実を言うと、解析も代数も「参考書」なので、もっと先に行きたいのだが。)
 
が、ここに来て、過去の習性が。
集合論の本を、買い集めてしまいそうなのだ。
まずいなーと思う。
集合論を勉強しても、たぶん、私には何の得もない。
(まあ、それを言ったら、数学自体、あまり得にならないのだが。)
それにしても、集合論は、まずそうだ。
それでも、すっきりわかれば、精神衛生上は、よいかもしれない。
が、すっきりわかる予感がしない。
 
とりあえず、図書館で、ブルバキを借りてみよう。買わずに。
それで、すぐさま挫折すれば、それはそれでよし。