国語の先取り学習・先行体験3

 
 国語は、個人と社会をつなぐものである
 
というのは、当たり前のことだろう。
言語は、個人と個人をつなぎ、「個人の集まり」を「社会」にするためにある
ものだろうから。
したがって、言語を、社会の文化や価値観から独立した、「記述や伝達のための
手段にすぎない」と考えることはできないと思う。
社会につながっている以上、どうしても、その社会の文化や価値観につながって
いるからだ。そもそも、言語がそれらの一端を担っているとも言えるはずだ。
 
価値観が多様ではなく、比較的落ち着いている社会では、「国語の教育」は
それほど難しくないと思う。
つまり、方法は確立されていると思うのだ。「古典を読め」とか。
精神の発達に関しては、早い遅い、深い浅い、という「程度の問題」でしかない。
あとは、「記述や伝達の手段としての言語」を扱う能力を磨くだけだろう。
 
私の少年期・青年期の日本は、そんな社会だったように思う。
価値観としては、「保守」と「革新」(あるいは、「アメリカ」と「ソ連」、
「資本主義」と「社会主義」)があったが、要するに、所詮二択だった。
さらに言えば、保守も革新も、たがいを「民主的でない」と非難していた。
つまり、二択であっても、両者に共通する価値観があったのだ。
(「二十四の瞳」を、保守の人も革新の人も礼賛した、なんて、話もある。)
私たちは、夏目漱石から太宰治くらいまでの小説を読むように勧められた。
 
ところが、現代の日本では、本当に、価値観が多様化してしまった。
「社会の価値観」を子供が受け入れるには、わかりやすいシンボルが必要だと思う。
基本的にその社会の多数が認めるシンボルだ。
しかし、今や「基本的にその社会の多数が認めるシンボル」はない。
さらに、連日報道される「日本の現状」(決して青少年による不可解な犯罪だけでなく、
たとえば、社会的に認めらている人々による収賄事件なども含まれる)を見るにつけ、
子供たちも、どういう方向に「精神の発達」させていけばいいのか、わからない
のではないだろうか。
 
話が大きくなりすぎただろうか。
それでは、話を、「病室の友人」に戻そう。以下続く。